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2013年10月23日 (水曜日)

それいけ!北総鉄道 7260形 まだまだ走るの?

まだまだ走る気です。さすが千葉の行商列車根性が違う
北総鉄道(京成からのリース品)7260形です

元はKDK3300形でしたが北総鉄道にお下がりされました
しかし、こんな旧式でさえ京浜急行線内は「快特」と「急行」で
運行する恐ろしい車両( ̄ー+ ̄)

さすが元・千葉ヤンキーです
轟音をまき散らしながら、しかも車内の窓がガタガタ揺れる
快特と言えども120km/hは出しませんが110km近くまで
加速する・・・大丈夫(^-^;

昔の都営5000形の様な危険な感じがぁ・・・。

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しかも、羽田空港まで乗り入れてくる!!

北総鉄道!!
車両の質が新と旧との差が広すぎるよぉ

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まぁ。これからも当分は大丈夫かなぁ?
登場したのが昭和43年(1968)だからねぇ・・・

しかも、元京成3300形の1次車なので行く末が危険すぎる

でも抵抗制御の地下鉄乗入れ車両は関東ではコレが最後
冬場は暖かい抵抗制御! いいぞ
夏場は陽炎が見える抵抗制御! 珍しいぞ

ボロい車内にボロ座席!!
それでも走る7260形でした。

2013年10月20日 (日曜日)

All Nippon Airways ボーイング747‐400くんの最後の頑張り

天気快晴・澄み切った青空・そして藍色の海
そうここは日本の空の中心である羽田空港です。

ANAの本拠地・国内線第二ターミナルの屋上です

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そこで翼を休めるのはボーイング747-400くんです
2階建ての大型航空機です

定員およそ550人・巡航速度910km・最高高度13700m・全長は70mあります。
最大航続距離は3830kmも飛べますがこの飛行機は日本用の特物品

短い距離の往復・大量の乗客をこなす為の特別使用機です

でも、悲しことに今年度で引退なのです。
もう、お年ですからねぇ!!

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出発前に地上係員が忙しく働いていらっしゃいます

気がついていましたか?
地上に居る時は冷房は地上から送り込んでいるんですよ。
電気もそうすねぇ!!

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747-400君の横からお客さんの手荷物を
たくさん積み込んでいます。大忙しです!!

前からも後ろからも荷物の積み込みで
地上の係員は汗だく・・・。

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さて、いよいよ出発です。
お客さんが渡る橋。ボーディングブリッジが離れます。
地上係員はタイヤの歯止めを外します。

あれれ横の兄弟の747‐400くんがいますね。
どちらも沖縄那覇行きですよ。
それでは、また那覇空港で一緒だねぇ

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まだ、メインエンジンをかけられないので車で回転します。
狭い中うまく、あらよっと!! 綺麗に円を描いて横向きます。

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さぁ、出発準備が整いました。車を外しましょう!!

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さて、4つのメインエンジンをかけます。少しづつ動いていく・・・。
747‐400くん。地上係員は手を振っています。
「行ってらっしゃい」良い旅行の意味をこめて手を振ります。

これは昔からの作法ですね。良く窓から見てますよ
暑い中。手荷物積み込み。燃料補充。点検ご苦労様
皆さんの御陰で安心して空の散歩に出かけられますぉ。

そして747‐400くんは最後まで頑張ってね。
もう残りわずかになったね。
子供の頃からたくさん君に乗りましたねぇ。
2階席もスーパーシートもプレミアムシートも

そうだよね主力路線は東京羽田ー沖縄那覇なんだから当然
それに、ひなた個人も君と一緒に働いた時期あったよね!!
懐かしい思い出だねぇ( ̄ー ̄)ニヤリ

最後まで元気に那覇まで往復してねぇ

ポチッとよろしく!

2013年10月18日 (金曜日)

謎の電車!!

世の中には謎が多くありますがこれもそうでね

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見た目は国鉄101系電車ですけど色があずき色
しかもヘンテコリンな曲線に留置されています。

とりあえず2両編成で置かれている不思議な電車
その後ろに見えるのも意味不明な車両・・・・

さて、ここはどこでしょう!!

2013年10月15日 (火曜日)

秋葉原  交通博物館に行く(Ⅲ) 最終回

 最終回です。2階へ行きましょう!!

 4階まで写真を念入りに細かく撮りましたがありますが(いつか使うために)今回は2階止まりにします。 観覧者が少ない限界集落なもんで!!!

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案内看板です。3階の映画室には思い出たくさんあります。本当に難しい記録映画を子供の頃見ました。全く理解できませんでした。2軸貨車の脱線実験の映像なんて、子どもに理解できないのに普通に流していました。

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この階段は懐かしいです。いつも平日に大学の卒業論文を書くためにの時に通ってました平日は誰もいなくて廊下がシーンとして音もなく、自分の足音だけが響いていました。

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2階から1階を見てみなす。上にはヘリが・・・。

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こちらは自動車関係の展示です。国鉄バス1号車は今は名古屋へ行ってしまいした。
貴重な文化財の信号機などは、バラバラに引き取られていきました。馬鹿だねぇ!!

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こちらの展示物も交通の大切な化石です。これもバラバラに引き取られました。

東京には交通を扱う博物館・展示館・資料館は3流以下です。どれも自分のところだけで規模は小さく内容はこども向け。

大宮の鉄道博物館はいいでしょう!
みんなさんも良いとおもいますか? 実物の車両があるのだからね!!
でも、ほとんどJR東日本の車両だけ私鉄は?・地下鉄は?・新交通は?

鉄道博物館も2流です。ただ綺麗に置いて展示して哀愁を誘うだけ。

子供の遊び場で勉強するところではありません。また勉強するスペースが小さすぎます。
実物車両と広い場所があれば良いのでわありません。内容が大切です。

特別展を3箇月に1回・資料集の発行研究してますか?
子供に喜ぶ施設で大人も楽しいでは鉄道の趣味自体が地盤沈下しますよぉ。

宜しければ英国の英国国立鉄道博物館へどうぞ。内容が違います。
博物館に付随して保存車両の修理工場があり。保存庫・巨大な実車展示スペース。そして本線とレールで接続されている。規模も展示内容も大きいさすが国立博物館!!

アメリカにはスミソニアン博物館が航空・宇宙・科学を専門にしてありますね。
規模は想像を絶するほど巨大で1日では回れません。さすがアメリカですね!!

日本は鉄道大国です。世界で初めて高速鉄道を開発した国です。科学立国の日本!!
さて、世界的な博物館は何かがありますか!!
教えてください!! 自慢できるなにか!!

これが日本の現状で、その程度の国民性なら哀しい限りです。

2013年10月10日 (木曜日)

十河総裁と島秀雄の挑戦 東海道新幹線(Ⅱ)

昭和24年(1949)に鉄道行政と鉄道現業機関の分離が図られ
公共企業体「日本国有鉄道」が成立しました。

そのトップ。全現業職員の頂点こそ日本国有鉄道総裁です。
しかし、歴代の国鉄総裁は大変な不運の連続でした。

初代   山下総裁は怪事件味巻き込まれ死亡
二代目 桜木町駅近くで起きた列車火災事故で引責辞任
三代目 宇高連絡船 紫雲丸沈没で引責辞任

次から次におこる事故と怪事件よる死亡。こんな危険な仕事を
する人はとうとう誰もいなくなりました。皆が逃げ回る始末です。

時代は鳩山一郎内閣。その参謀は、あの吉田茂内閣を崩壊に
導いた切れ者・策士。三木武吉が説得に奥の手として行った先は・・・。

こちらも策士で戦前は汚職疑惑で逮捕され無罪になり・・・・。
中国に渡り軍部と交わりを持ち、南満洲鉄道の調査部長に抜擢され
陸軍の秀才石原莞爾との好友を持ち、反東条英樹運動にも参加した
危険人物。

その修羅場の数は並大抵でない鉄道官僚。十河信仁に逢いに・・・。

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このとき既に71歳。辞退するも三木の強烈な説得に折れてます。
さすがに「赤紙を突き付けられて逃げる非国民か」と言われれば
明治の男は逃げません。国鉄総裁に着任します。

記者会見で「線路枕に討死する覚悟で戦う」と宣言しました。

誰も期待していなかった国鉄総裁です。
老齢ですから新聞記事も冷淡でした。

しかし、十河信二総裁の恩師は鉄道院総裁の後藤新平さん。
若き日の夢である広軌改築に人生の最後の怨念を燃やします
まさに。4回目の後が無い最終戦の戦いを開始しました。

時代は高度経済成長で東海道本線の輸送は限界に達していました。
複線での普通・急行・特別急行列車・貨物の同時輸送は無理である。

そこで、複々線化して輸送力の増強を図ろうと国鉄官僚が考えます。
しかし、総裁は別線で広軌新線案を夢見ていました。
そして猛烈に動き出します。

十河総裁は新幹線計画に反対する技術部トップ技師長を更迭します。
次々と反対派を更迭・解任・人事異動させていきます。

そして技術部トップには国鉄を退職していた島安二郎の子供である。
島秀夫を口説きに行きます。引きずっても連れてくる覚悟です。

十河国鉄総裁にはもう後がないのです。
高速鉄道にふさわしい技師長の人材がいないのですから。

島秀雄は戦前の新幹線構想で高速列車の設計のリーダー的存在。

初めは辞退する予定の島は十河の情熱・執念・怨念が入り交じる説得
島秀雄はついに折れます。そして線路枕で討死する覚悟を決めます。

技師長の島秀雄は部下の技術グループに全権を与え高速列車実現へ
進みだします。ゆっくり走り出します。

昭和32年に国鉄本社幹線調査局は東海道本線の輸送解決案として
1・狭軌複々線案
2・狭軌別線案
3・標準軌別線案

3案を提出して議論を尽くした。
4度目の挑戦に島は戦術を練りました。
慎重に事を進め。1案を最後まで残し議論に口を出さない。
言葉を発すれば反対派が勢いをつける。慎重に慎重に。

結論は「早急に別線で広軌新幹線を建設する」に決まりました。

しかし、最大問題は国鉄の予算は国会の承認が必要です。
もし馬鹿高い金額なら狭軌の1案に戻る危険は十分にあるのです。

十河総裁は幹線調査会が計算した正しい予算額の約3000億円の
話を聞いて考えもせず、問答無用に半分にしろと強硬に命令しました。

「そんな少ない予算では新幹線はできません」と言う声を聞きません。

十河総裁は刺し違える覚悟で、辞任を前提に作ってしまえば良いと
考えました。地位も身分もお金もいらない人ほど怖いもの無しです。

それに後で建設中止なんて出来ないだろうと考えたのです。
さすが知恵者!!

さすが策士。豪胆な性格です。
たった半分の金額で国会と国民をみなを欺いたのですから。

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島秀雄以下の技術者は鴨宮モデル線で実験を開始します。
翼のない飛行機のような見たこともない形の高速電車が完成した。

ここまでくれば完成を待つばかり。十河総裁はモデル線の
試験列車から身を乗り出して手を振りご満悦。夢かなうです。

開業が迫る頃になると当初の通り予算の問題が現実化してきた。
当然で死に場所を知っていた十河総裁は新幹線の開業前には
予算問題で辞職させられました。

また、十河総裁と一緒に仕事をした技師長の島秀夫は新総裁の
留任を断固断ります。

十河総裁の為に進めた新幹線計画です。一緒に職を辞しました。
まさに名誉ある二人の線路枕した討死です!!

昭和39年10月10日オリンピック東京大会開会式の10日前
東海道新幹線は開業した。

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十河と東海道新幹線。

東京駅には新幹線をたたえるプレートと石碑があります。

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島秀夫さんはこの文章に抵抗があったようです。
新幹線と一緒に写真を撮るときには決められた
場所を指示されていました。
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十河国鉄総裁の顔のレリーフの前です。

このレリーフにはただ一言「一花開天下春」と書いてあるだけ。

島秀夫はレリーフの前でいつも写真を撮られました。
新幹線はこの2人で完成されたものなのですから。

ただ、十河さんレリーフが完成したときに一言「似てない」と
言われたそうです。さすがです。

2013年10月 5日 (土曜日)

秋葉原  交通博物館に行く(Ⅱ) 中編

哀しい日本の鉄道博物館 子供の遊び場。 実物展示しか考えない発想・・・。

さて交通博物館の特別展示室を出るとコノ展示が目に入ります。
かなり時代遅れな展示ですが・・・歴史的な遺物です。博物館級の展示物です。

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現物展示ができないので模型で展示。
それでも多くの車両が展示されていました。
私鉄車両の展示もあり平均的に車両を見ています。
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こちらも懐かしい。パンタグラフ・架線・モーターの機械的構造
全速力で走らせて急ブレーキかけて遊びましたねぇ。 たぶん誰もがやります。

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信号機の展示室・横には新幹線のCTC装置が置かれています。説明文などほとんどありませんでした。自分で調べろ! そのくらいは知っていて当然! そんな展示でした。

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唯一 子供たちが納得できて楽しくて、親を引っ張ってガラスにへばりついて見た
模型展示場。 朝のラシュ時間・昼間の時間・夜は寝台特急。国鉄時代そのままです。

次回につづく!!

2013年10月 1日 (火曜日)

東海道新幹線(Ⅰ) 210km/hでの列車の運行は可能である。島安二郎

時に昭和39年(1964)10月1日に東海道新幹線は開業しました。
みなさんは鐵道好きですから説目の必要ないですよね。

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終戦から19年後。建設から僅か5年の短期間で
東京―新大阪間の高速鉄道が全通したのでした。

しかし、それより前に新幹線構想を考え出していた人がいます。
それは、はるか昔の明治37年(1904)にさかのぼります。

「設備次第では210km/hでの列車を運行することは立証されている」
と言い切って論文を書き上げ公表した方です。

お名前を「島 安二郎」さんと言います。

210km/hの列車・・・これこそ新幹線のスタートラインなんです。
明治37年と言えば1904年のことです。

東海道新幹線が開通する60年も前になります。

明治5年の鐵道開通から路線を伸ばしていきました。
官営鉄道・民営鐵道は国策により国有化され
変遷を経て鐵道院に統合されます。

日本の鉄道は開業時から問題を抱えていました。世界標準の
線路幅である標準軌ではなく狭軌1067mmを採用しています。
なぜ狭軌を導入したかは諸説あります。後日に説明しますね!

その結果、早く列車を走らせたくともレール幅が狭いので・・・・
高速で大型の機関車を作ることは不可能でした。

なぜ?

レール幅が狭いので車輪を大きくすると車体が不安定になります。
したがって不安定なので大きなボイラーが搭載できませんでした。

また物理上。蒸気機関車の動輪へのピストン運動は限界回数が
決まっているので車輪を大型にしなければ高速運転は物理的に
不可能なのです。

そこで島安次郎さんは、鉄道院総裁の後藤新平に全線を標準軌
である1435mmへ改築して高速化をしようと発言しスタート切ります。
そのための法案である「広軌改築案」を
帝国議会へ3回提出していましす。

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しかし、もう一つの大きな考え方がありました。

「改築する金があるなら路線を伸ばせ」これが帝国議会の声でした。
これは議員の票にもなります。

結果は却下され狭軌で線路拡大方針が日本の国策に決定されました。

島安次郎さんは鉄道院を退官します。
そして南満洲鉄道へ任官し標準軌で実力を試します。
そこで最高時速150kmで走るパシナ形蒸気機関車
の特急「あじあ号」開発に成功します。

レールの幅さえ広ければ210km/hはもう時間の問題でした。

この成功がもとになり、昭和14年に鉄道省へ呼び戻されます。
目的は「新幹線」構想の実現。
東京―下関間を9時間・大阪まで4時間で結ぶ計画の最高責任者に着任します。
もう公式文書に「新幹線」の文字が出てきます。

そして昭和15年5月24日に新幹線の運行図表予定が完成します。

いよいよ本格的な工事スタートです。
新丹那トンネルの掘削開始。土地取得。進んでいく計画。
昭和16年の太平洋戦争で工事は縮小しますが進みます。
しかし、戦局悪化で昭和19年には戦争の為に中止が決定されてしまいます。

そして終戦、島安次郎さんは昭和21年2月に力尽き亡くなりました。
77歳の人生でした。

10月10日に・・・つづきます。

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