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2013年10月10日 (木曜日)

十河総裁と島秀雄の挑戦 東海道新幹線(Ⅱ)

昭和24年(1949)に鉄道行政と鉄道現業機関の分離が図られ
公共企業体「日本国有鉄道」が成立しました。

そのトップ。全現業職員の頂点こそ日本国有鉄道総裁です。
しかし、歴代の国鉄総裁は大変な不運の連続でした。

初代   山下総裁は怪事件味巻き込まれ死亡
二代目 桜木町駅近くで起きた列車火災事故で引責辞任
三代目 宇高連絡船 紫雲丸沈没で引責辞任

次から次におこる事故と怪事件よる死亡。こんな危険な仕事を
する人はとうとう誰もいなくなりました。皆が逃げ回る始末です。

時代は鳩山一郎内閣。その参謀は、あの吉田茂内閣を崩壊に
導いた切れ者・策士。三木武吉が説得に奥の手として行った先は・・・。

こちらも策士で戦前は汚職疑惑で逮捕され無罪になり・・・・。
中国に渡り軍部と交わりを持ち、南満洲鉄道の調査部長に抜擢され
陸軍の秀才石原莞爾との好友を持ち、反東条英樹運動にも参加した
危険人物。

その修羅場の数は並大抵でない鉄道官僚。十河信仁に逢いに・・・。

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このとき既に71歳。辞退するも三木の強烈な説得に折れてます。
さすがに「赤紙を突き付けられて逃げる非国民か」と言われれば
明治の男は逃げません。国鉄総裁に着任します。

記者会見で「線路枕に討死する覚悟で戦う」と宣言しました。

誰も期待していなかった国鉄総裁です。
老齢ですから新聞記事も冷淡でした。

しかし、十河信二総裁の恩師は鉄道院総裁の後藤新平さん。
若き日の夢である広軌改築に人生の最後の怨念を燃やします
まさに。4回目の後が無い最終戦の戦いを開始しました。

時代は高度経済成長で東海道本線の輸送は限界に達していました。
複線での普通・急行・特別急行列車・貨物の同時輸送は無理である。

そこで、複々線化して輸送力の増強を図ろうと国鉄官僚が考えます。
しかし、総裁は別線で広軌新線案を夢見ていました。
そして猛烈に動き出します。

十河総裁は新幹線計画に反対する技術部トップ技師長を更迭します。
次々と反対派を更迭・解任・人事異動させていきます。

そして技術部トップには国鉄を退職していた島安二郎の子供である。
島秀夫を口説きに行きます。引きずっても連れてくる覚悟です。

十河国鉄総裁にはもう後がないのです。
高速鉄道にふさわしい技師長の人材がいないのですから。

島秀雄は戦前の新幹線構想で高速列車の設計のリーダー的存在。

初めは辞退する予定の島は十河の情熱・執念・怨念が入り交じる説得
島秀雄はついに折れます。そして線路枕で討死する覚悟を決めます。

技師長の島秀雄は部下の技術グループに全権を与え高速列車実現へ
進みだします。ゆっくり走り出します。

昭和32年に国鉄本社幹線調査局は東海道本線の輸送解決案として
1・狭軌複々線案
2・狭軌別線案
3・標準軌別線案

3案を提出して議論を尽くした。
4度目の挑戦に島は戦術を練りました。
慎重に事を進め。1案を最後まで残し議論に口を出さない。
言葉を発すれば反対派が勢いをつける。慎重に慎重に。

結論は「早急に別線で広軌新幹線を建設する」に決まりました。

しかし、最大問題は国鉄の予算は国会の承認が必要です。
もし馬鹿高い金額なら狭軌の1案に戻る危険は十分にあるのです。

十河総裁は幹線調査会が計算した正しい予算額の約3000億円の
話を聞いて考えもせず、問答無用に半分にしろと強硬に命令しました。

「そんな少ない予算では新幹線はできません」と言う声を聞きません。

十河総裁は刺し違える覚悟で、辞任を前提に作ってしまえば良いと
考えました。地位も身分もお金もいらない人ほど怖いもの無しです。

それに後で建設中止なんて出来ないだろうと考えたのです。
さすが知恵者!!

さすが策士。豪胆な性格です。
たった半分の金額で国会と国民をみなを欺いたのですから。

Photo_2

島秀雄以下の技術者は鴨宮モデル線で実験を開始します。
翼のない飛行機のような見たこともない形の高速電車が完成した。

ここまでくれば完成を待つばかり。十河総裁はモデル線の
試験列車から身を乗り出して手を振りご満悦。夢かなうです。

開業が迫る頃になると当初の通り予算の問題が現実化してきた。
当然で死に場所を知っていた十河総裁は新幹線の開業前には
予算問題で辞職させられました。

また、十河総裁と一緒に仕事をした技師長の島秀夫は新総裁の
留任を断固断ります。

十河総裁の為に進めた新幹線計画です。一緒に職を辞しました。
まさに名誉ある二人の線路枕した討死です!!

昭和39年10月10日オリンピック東京大会開会式の10日前
東海道新幹線は開業した。

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十河と東海道新幹線。

東京駅には新幹線をたたえるプレートと石碑があります。

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島秀夫さんはこの文章に抵抗があったようです。
新幹線と一緒に写真を撮るときには決められた
場所を指示されていました。
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十河国鉄総裁の顔のレリーフの前です。

このレリーフにはただ一言「一花開天下春」と書いてあるだけ。

島秀夫はレリーフの前でいつも写真を撮られました。
新幹線はこの2人で完成されたものなのですから。

ただ、十河さんレリーフが完成したときに一言「似てない」と
言われたそうです。さすがです。

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コメント

こんばんは。

当時万里の長城、戦艦大和と並んで「世界の三馬鹿工事」などと呼ばれた新幹線が、今や日本の大動脈となり、バイパスとしてのリニア新幹線の建設も決まりましたね。
こういう時代の到来を当時から予測していたのだとすれば、想像を絶する先見の明の持ち主だったということですよね。いまさらながらその凄さを実感します。

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