JNR 東海道新幹線 開業50周年 昭和39年10月1日
The 50th anniversary of the Tokaido Shinkansen
この昭和39年(1964)こそ、新しい交通機関の幕開けの年です!
鐡道趣味では4回に分けて新しい交通を取り上げたいと思います。
連続4話の最終話は夢の超特急
「東海道新幹線」のお話をしたいと思います(* ̄ー ̄*)
現在の東京駅の東海道新幹線18・19番ホームの真下に新幹線の
記念プレートがあります。東海道新幹線に乗る為に急いでいると!
気がつかないくらいのプレートです。
「この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」
このプレートは開業から3年後の昭和42年(1967)10月14日
に国鉄により東京駅に設置されました。
わたしは凄く!このプレートに異常な違和感が常にあるのです!!
「日本国民の英知と努力」で完成したわけではない気がするのです
「新幹線」は、十河信二国鉄総裁の情熱と執念で完成したのではと
思うからです。
第4代 日本国有鉄道総裁 十河信二氏
任期 昭和30年(1955)5月14日 - 昭和38年(1963)5月19日
国鉄総裁は初代の山下総裁は謎の怪死・2代目は桜木町駅付近
での電車火災(桜木町事故)で引責辞任しました。 3代目は宇高
連絡船沈没(紫雲丸事件)で引責辞任。日本国有鉄道発足してか
ら約6年で総裁が3人も交代する緊急事態です!
政府は国鉄総裁に有能な財界人の登用で不祥事を刷新しようと声
を上げますが、不祥事だらけの国鉄を引き受ける人がいません。
そこで国鉄OBからの起用となります。そしてすでに71歳であった。
十河信二さんに総裁の就任を依頼をします。しかし前年に入院を
して体調がすぐれない体調にも関わらず就任します。
実は十河総裁には1つのやるべき事柄がありました。恩師である
後藤新平の持論である「鉄道線路の欧米と同じ広さ1435mmに。
そして高速化を図り輸送力の向上を図る」この実現を目指します。
そして十河総裁は最後のチャンスを偶然に与えられました。そこで
国鉄の技術担当の最高責任者である。藤井松太郎技師長に高速
列車の研究を指示しますが松井技師長は大反対をします。当然!
当時の国鉄は、切迫した輸送力の状態を打開するで手が一杯!!
そこで十河総裁は即決です。藤井技師長を更迭します。後がない
総裁は、あの桜木町事故で辞任して住友金属取締役にいる国鉄
OBの島秀雄氏を国鉄理事・技師長への復帰を願い出向きます。
島さんは、後が無い十河総裁からのお願い攻勢と情熱に負け
昭和30年10月6日に副総裁と同格理事待遇しかも技師長として
技術分野の全権を与えられて国鉄技術職員を率います。
ここから二人三脚ので建設へ慎重に進めます。
島秀雄さんは戦前の弾丸列車計画の技術担当者でした。高速
鉄道を知る技術者を十河総裁は得る事が出来ました。また父で
ある島安二郎は弾丸列車計画の技術責任者でもありました。
ここに東海道新幹線開業までの7年半に及ぶ戦いが始まります
日本国有鉄道新幹線総局が編纂し発行した「新幹線十年史」の
先頭のページ。書き出しの文章はこうあります。
「時速210kmと言う全く未知への挑戦、万里の長城の名で無用
の長物の批判のあった中からの出発」
まさに国民も国鉄幹部もジャーナリストも懐疑的な乗り物を創り
出す作業が信じる人たちによって始まるのでした。
十河総裁の地道な努力によって昭和32年(1957)8月30日の
閣議決定をもって運輸省に「日本国有鉄道幹線調査会」を設置。
昭和33年7月7日に下記の答申が決定されました。
「東海道線の需要から見て東海道に新規格の線路を建設する
必要を認めるとともに新規路線の形態として高速度の安全度
の点から「広軌別線1435mmとすることができ適当である」
そして昭和33年(1958)12月19日に建設の閣議決定をもって
建設が承認。ここで十河総裁は国会と政府を騙しにかかります。
建設総額3000億円と言う国鉄当局の計算を無視をあえて無視
無理も嘘も承知で半額の値段を政府に提出します。
その値段は利子込みの建設費1948億円。
十河総裁最大の賭けです。もし、ここで正確な金額をだしたら・・・。
国会で予算は通るのが難しい。反対論が出た場合はいくら理論や
夢とは言え国会審議と世論は抑え込めない。ならば騙してでも少な
予算案で建設をスタートし大部分を作ってしまえば後戻りできない。
東海道新幹線の予算と心中を前提に偽装した予算額を提出しました。
はじめから政府も国会も国民すら騙して作るのです。新幹線の世論
は冷たい。しかし利用してもらえば絶対に理解してもらえる。
実に冷徹な判断を十河総裁はします。
鐡道愛好家であり。文化勲章授与 作家である阿川弘之さんにさえ・・・。
「世界の三馬鹿。万里の長城・戦艦大和・新幹線」とまで言われる始末。
※後に阿川弘之さんは当時の先見性のない自分のことを恥じた文章を書いています
全く期待もされていない。信じているのは新幹線を作り上げる国鉄技術
人と支える一部の国鉄幹部だけでした。それでも建設は始まります。
さて、建設です。東京―新大阪間515.811km
全線複線立体交差する大工事
概要をまとめますね
トンネル 約65km 全64ヶ所
橋梁 約44km 50m以上の場所100ヶ所
設置駅 12カ所 東京・新横浜・小田原・熱海・静岡・浜松・豊橋・
名古屋・岐阜羽島・米原・京都・新大阪
昭和34年4月18日 工事を指揮する東京幹線工事局設置されます。
昭和34年4月20日 新丹那トンネル熱海口で鍬入れ式挙行。
建設スタートです。
実験・車両の走行試験・また全体のシステム確認をする為に
綾瀬―小田原間37kmに先行してモデル線区間作り鴨宮に
基地をもうけました。この実験線を「モデル線管理区」という
国鉄本社直属の機関になります。
モデル線区地図
https://www.google.co.jp/maps/search/%E9%B4%A8%E5%AE%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E7%B7%9A/@35.3508799,139.3029721,12z
昭和37年(1962)6月20日モデル線区発足
2日後の6月22日にモデル線区の1部区間2km
で実験がスタートします。この時、最高時速70km。
これが新幹線が初めて走った日です。
十河総裁は待ちきれなかったのでしょう6月26日に公式運転日
の6日後には鴨宮へ来て新幹線の運転席から身を乗り出して!
自分の理想が形になったことを実感したと思います。
しかし、まだ1週間しかたっていないモデル線。車両の重さに
線路が陥没\(;゚∇゚)/ 総裁が来る6月5日に大急ぎで線路
の突き固めをします。でも・・・結局。当日も多少陥没_| ̄|○
パンタグラフが万歳してして架線から離れてしまいました。
モデル車両としてA編成2両・B編成4両で様々なテストが開始
されます。なにしろ世界で初めての高速鉄道です。高速度では
目視で信号機を見ることが出来ません。なので、車内に信号機
の機能を収め自動で制御する画期的な自動列車制御装置ATC
を開発します。
また、集中列車制御装置CTCで運行を絶えず監視するシステム
を採用しました。
モデル区間では速度向上訓練を積み。最高速度試運転の日が
来ました。時に昭和38年(1963)3月30日
B編成の4両は時速を上げていきます。
午前9時46分32秒
国鉄技術陣の構想は256kmの大記録を打ち立てます。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…
ちなみそれまでの日本の高速度記録は
※参考記録で昭和8年(1933)12月
阪和電気鉄道(いまのJR阪和線ですよぉ)の超特急がなんとぉ!
ヨモ100形電車が
阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分超絶運転です
表定速度81.6km/h←これ凄すぎです。
停車時間も含めての時速なので
実際は100km~110km/hで運転していたことになります。
関西の私鉄の性能・・・恐ろしいです
戦後の国鉄は
昭和34年7月31日に「こだま」型特急が高速度試験で163km/h
こだま型は特急電車は旅客営業運転で阪和電気鉄道のスピード
記録を26年かかり表定速度を塗り替えます。おめでとう( ̄ー ̄)
昭和35年11月21日電車の架線を計測する電車が高速度試験
で175/h そう考えると新幹線は一気に81km/hもスピードUPした
のです( ̄ー+ ̄)
後日談ですが( ̄▽ ̄)
本当は250km/hを目指しての最高時速運転でした・・・。
残りの6kmわぁ
運転士がアクセル(電車はノッチと言います)
から手を離せなかったのです。
なぜ\(;゚∇゚)/
この時、モデル線区で運転を担当していた大塚滋さんは線路の
状態から、これが最後の最高時速訓練になると思い。250km
を越えても運転士の手をおさえていました。すると車両の蛇行が
始まり。停止の位置から考えて運転士の手をようやく手を離した
その時が256km/hの時だったのです。凄いよねぇ!!!
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥
さて、新幹線の建設工事も大忙しです。
新丹那トンネルは延長約8km。昭和37年9月20日ようやく貫通!
また、東京都心部の工事も大工事になりました。物凄いのは品川
駅を出た東海道新幹線は横須賀線(品鶴線)の真上を走ります。
1日200本近く走る列車を縫うように高架工事をしていきました。
ここで大きな問題の個所が現れます。東京都大田区馬込付近!
地下には都営浅草線・その上の掘割を横須賀線(品鶴線)が走り
その上に国道1号線1日位の通行量は1万台の幹線道路
そして、その上に・・・・なんと新幹線の橋を架ける。直線ルートなの
で凄く珍しい、4重立体交差になってしまいました。
昭和39年4月20日にはモデル線は廃止。
モデル線はそのまま現在線として使用されます。
そして各建設区の線路が1本に繋がり始めます。
昭和39年7月1日には川崎市市ノ坪で最終レールが締結されました。
これにより東西のレールは1本に繋がりましたが開業2カ月前ます。
同年の7月7日には新幹線の愛称が決まります。超特急「ひかり号」
特急「こだま」応募総数は19,845通も集まりました。
ちなみに「こだま」は10番目の人気ですが当選しました。
さて、この間にもモデル線などを使用して試乗運転会を続け国民に
東海道新幹線とはどんなものか周知し始めます(* ̄ー ̄*)
モデル線区試乗券
現在線区試乗券
東京―小田原間 試乗券
新幹線車両も増産体制にはいり車両会社で大急ぎで建造です。
その結果。30編成360両が揃います
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥
貴重な試乗会時代の写真を宮松コレクションからお借りしました。
~転載などはご遠慮ください~
昭和39年9月15日 東京駅 提供 撮影 宮松慶夫さま
それにしても東京駅周辺もまだ空が高いことです。
すべてが新品のピカピカの新幹線ですねぇ。( ̄▽ ̄)
昭和39年9月15日 小田原駅構内 提供 撮影 宮松慶夫さま
まだ、小田原駅構内も工事中ですねぇ。果たして完成するのか
※ちなみに撮影された9月15日。ひかり号の4時間運転は不可能!
2日後の9月17日に初めての東京―新大阪4時間運転達成です
もう、1か月も無いのですよぉ・・・。と現場は慌てていました_| ̄|○
新幹線は開業まであと、もう少し国民の期待も高まっていきます。当時
昭和39年の朝日新聞の縮刷版をみると新幹線の記事が多いことに気
がつきます。でも、この盛り上がりの1年前、十河国鉄総裁は新幹線の
予算不足を理由に※引責辞任をします。
※ 行政手続き上は任期満了で退任と書くべきだとおもいます。
しかし、良くわからない疑問点として国鉄の収益は黒字でどうにか保たれいた当時
三河島事故でさえ引責辞任に追い込まれなかった総裁を、任期満了で退任させる
必要は何処から発生したのか。また真意は何処にあるのか(・・?
しかも、後任の石田総裁と年齢はあまり変わらない。本人も続投の意思があるのに
この部分が明確になるまでは任期満了で円満退社とは書けない。ので、引責辞任と
私は解釈して書きこんでおります。(あくまでも、朝比奈ひなたの個人見解です。)
最終的には東海道新幹線建設には1,400億円の予算不足になりました。
しかし、予算不足に陥ることは十河総裁は当初から計画済みでした。
新幹線が完成が確実となった時点で満足だったと私は思います。
辞任は更に続きます。
安孫子副総裁・新幹線建設部門の大石重成新幹線総局長も辞任
技術陣の頂点にいる技師長も島秀雄さんは技術陣のトップだけに、
後任の5代目石田国鉄総裁に辞任を引き留められます。
しかし「99%完成の見通しがたっているので、技術的に心配はない」
として国鉄本社へ当庁を拒否。辞職します。
新幹線を夢見た少数の役員達は
新幹線開業前に国鉄本社を去りました。
そして時に昭和39年(1964)10月1日。オリンピック東京大会の9日前
朝もやが残る5時40分
東京駅9番線ホームは取材陣・乗客・国鉄幹部で溢れます(* ̄ー ̄*)
国鉄東京鉄道管理局吹奏楽団による「超特急」の曲の中
5:59に出発のベルがホームに響きます。石田国鉄総裁はおもむろに
テープカット。くす玉が割れるなか6:00に超特急ひかり号第一列車が
レールの滑るように東京駅を走り出します。
この場に前総裁の十河・前技師長の島は招待されていませんでした。
超特急ひかり号第一列車は一路。新大阪駅を目指して走行します
側面のプレイトもカッコいいです。「超特急」
東京駅6:00定刻→名古屋駅に8:29定時→京都に9:34定時。
そして新大阪駅に定刻通り10:00に到着しました。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…
さて、東海道新幹線開業前は?
交通公社の昭和39年7月の時刻表を見ると
東京発駅発の特別急行 第一こだま号と比べてみますねぇ。
東京駅7:00→名古屋駅11:13→京都駅12:58→大阪駅13:30( ̄▽ ̄)
新幹線は大阪(新大阪)に2時間半も早く着くのです
でも、この昭和39年10月1日からの運転は大急ぎで準備したために
徐行運転しています。東京―新大阪は4時間。とにかく東京オリンピック
に間に合う為に210km運転を諦めて、安全を保てる速度で運転でした。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━
当日は東京駅丸の内にある東京中央郵便局では記念印を押した
切手が発売されます。こちらも大人気になります。
10月1日の開業式典は10時10分に日本国有鉄道本社にて
天皇・皇后両陛下をお招きして挙行されました。
天皇陛下は国鉄に対して
「日本国有鉄道の東海道新幹線が、苦難の困難にうちかって
見事に完成し、本日、その開業式を迎えるに至ったことは、私
の深く多とするところであります。
わが国の鉄道が近年著しい成果を上げ、国民生活の向上と産
業経済の発展に多大の貢献をしてきましたが、関係者は、今後
さらに力を合わせて輸送力の充実と安全の確保に努め、その
使命を達成することを希望します」 長文のお言葉を賜りました。
それから9年後の昭和48年(1974)新幹線新大阪駅から岡山駅
まで開通。さらに西を目指します。国鉄内で新幹線建設記念碑を
作ることになりました。この成功は4代十河総裁の結果であると
ようやく認める事になります。
同年4月20日。現在の東京駅東海道新幹線19番線乗り場に
碑が建てられました。とても質素な碑です。解説文もありません。
レリーフには十河総裁の顔と総裁の漢文が書かれています。
「一花開いて天下の春」
余計な文書はありません。漢字6文字で全てを表しています。
昭和39年度の乗車人員は1100万人。 昭和48年には累
計8億2000万人この数字だけでも、建設した意義が見えます。
技師長で長らく十河総裁を支えた島秀雄さんは、TV・雑誌で
新幹線が取り上げられるたびに、東京駅のこの十河総裁の
碑の前で新幹線と撮影する事にしていました。
コンコースの碑の前ではなかったのです。
平成元年3月14日 西明石駅 提供 撮影 宮松慶夫さま
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この新幹線は
一人の人間の原動力と、それを支えた技師長と新幹線を夢見た
多く国鉄職員の英知によってこの鉄道は完成したと思うのです。
朝比奈ひなた
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参考図書
日本国有鉄道百年史 日本国有鉄道編纂
新幹線十年史 新幹線総局
運転協会誌 平成11年5月号より
写真協力 注意書きがあるもの 宮松コレクション 撮影・宮松慶夫さま
乗車券類 朝比奈ひなたコレクション 所蔵
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
文末にお知らせ。 とっても良い記念グッズ紹介です
記念グッズが出ていますがお手軽に購入できるものはいかが
第一弾
東海道新幹線開通50周年を記念して、大蔵省造幣局より1,000円硬貨が
発行されます。この記念に記念硬貨は如何でしょうか( ̄▽ ̄)
価格は10,000円くらいです。特殊な加工と銀が多く入っいるのでお高めに
でも、普通にコンビニで使えば1,000円ですから注意してください。
とても良い構図で、いまから造幣局の発行が楽しみですねぇ( ̄ー+ ̄)
第二弾
もっとお手軽にお求めの貴方・貴女!!
こちらの新幹線開業50周年記念100硬貨なら如何でしょうか
ちょっとデザインは大人しいですが統一した面はそれなり
個性があるのは各線ごとに発行されます。
やっぱり、新幹線と言えば東海道新幹線ですよねぇ。これは譲れません。
デザインもお洒落で車両を細かく再現してますね(゚▽゚*)
お次は東海道新幹線開通後に「ひかりは西へ」でおなじみの山陽新幹線
こちらもデザインはクールです。いいな。いいな。
こちらの記念硬貨は銀行で両替ができます。100円は100円で100円の
モノが買えます←くどいですねぇ。
あとはJR東が出している新幹線も100円硬貨になります。
紙上割愛します∑(゚∇゚|||) あんま・・・趣味じゃない・・・あっ御免なさい
第三弾
10月1日~7日に少しでもお暇がある方にお勧めです
郵便局で記念の日付印をてもらおう。( ̄ー ̄)ニヤリ
記念切手を封筒に張って記念のスタンプを押してもらう。
これなら切手代金の82円と封筒代金でOKです。安くて良い記念に
東京中央郵便局以外にも押してくれる場所がたくさんあります。
東京中央は→京橋郵便局が特別捺印場所になります。注意
横浜中央郵便局
名古屋中央郵便局名古屋駅前分室
大阪中央郵便局などなど
詳しくは、郵便局まで
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
たくさんのイベントがある東海道新幹線50週年
鐡道趣味でも
新幹線の話題を10月は少し取り上げていきたいと思います。
ここまでの長文のブログ読破。皆様お疲れ様でした( ̄▽ ̄)
感想などありましたら、些細なことでもよいですのでコメントに
書き込みをよろしくお願い致します。
朝比奈 ひなた。
※わたしが描いている「東京三十五区物語」では
第十八回オリンピック東京大会の記事も掲載しています。
宜しければ合わせてご覧ください。
下記からブログに移動できます。
http://harumi-sta.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-b884.html
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こんにちは~。モモパパです~。
いや~。
大変興味深く読ませていただきました。
そんないきさつがあったんですね。
僕、知りませんでした。
ひなたさん。
詳しいですね。
僕なんか足元にも及ばないや。
投稿: モモのパパ | 2014年10月 1日 (水曜日) 09時02分
モモパパさん。書き込みありがとうございます。あっはは
大学の先輩・職場の上司から鉄道専門書を頂いたり、大学生の時に国鉄百年史を10万で買ってみたりと大量に基礎資料の的な古書があるので参照してみました( ̄ー+ ̄)
大学時代に研究室で勉強している時に、どうしても必要で買い集めてしまった(笑)
なので鉄道雑誌とかは興味が無いのですけど、異様に専門的なことだけ知ってる私・・・偏った知識おそるべしです
投稿: 朝比奈ひなた | 2014年10月 1日 (水曜日) 22時47分
こんばんは。ご無沙汰しております。
あまり気にも留めていなかったのですが、記念硬貨や日付印など、いろいろなところでいろいろなイベント(?)が行われているのですね。
50年前、今日の大動脈となった新幹線の姿を正しく想像できた人はどのくらいいるのでしょうか。十河総裁すら、ここまでになるとは想像できなかったのでは?
そのくらい、今日の新幹線の姿はすばらしいものだと思います。
投稿: いかさま | 2014年10月 2日 (木曜日) 00時56分
いかさまさん。書き込みありがとうございます。今の新幹線を見て十河さんが生きていらっしゃたら、「後藤新平は天下の秀才だぁ」と言われるかも。
それと自信の評価はと聞いたら「しらん」と答えそう。十河総裁と十河総裁と、お話しされたことがある方から聞いた昔話から推測すると、そんな人みたい
さすが明治の男は寡黙で強い。
投稿: 朝比奈ひなた | 2014年10月 2日 (木曜日) 22時50分
朝比奈ひなた様
東海道新幹線50周年の記事を調べている内に、10月1日の記事に出会いました。
東京駅にある「東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」というプレートについて「違和感がある」と書いて下さる方は少ないので、気になり全文読ませていただきました。よく調べられて書かれていますね。嬉しく思います。
ただ誤りが見つかりましたのでお知らせします。技師長の「島秀夫」となっていますが「島秀雄」です。また「十河国鉄総裁は新幹線の予算不足を理由に引責辞任をします。」とありますが、2期8年の任期満了で3期目が再任されなかったということであり「辞任」ではありません。
参考文献として、「不屈の春雷 十河信二とその時代」牧久著 ウエッジ 「夢の超特急ひかり号が走った」つだゆみ著 西日本出版社 などもお読みいただければと思います。また11月には髙橋団吉さんが「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」を出版する予定です。
投稿: 十河光平 | 2014年10月19日 (日曜日) 21時45分
十河光平さま。書き込みありがとうございます。ダメですね誤字が多くてぇ┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
十河さんの辞職の件ですが2期8年の任期満了なのですが、当時の資料を読み漁ると当時の池田首相に吉田茂元首相が十河総裁の再々任に使者を立てています。
2期目も吉田茂の回顧録では使者が再任の使者を立てています。難しい判断ですが、実際そのあとの国鉄総裁が決まるまで間は国鉄内部で文章でつじつまが合わない部分があるので、個人的な見解で文章をまとめております。
できるだけ回顧録・公文書的な本もしくは、鉄道事業者用の運転協会誌など内輪の本の内容でまとめています。でも、私自身が鐡道に未熟なので間違いなどあると思います。
また、時間があれば公文書・回顧録などで詳しく調べたいと思います。至急にはできないので加減良くやってみます。まぁ。そんな、わたしを笑ってやってくださいなぁ( ̄▽ ̄)
また、十河光平さま。ブログを最後まで読んでいただき、コメントまで本当にありがとうございます。ひっそりと辺鄙なところで、ひっそり営んでおりますので今後とも、ご指導お願い致します。
p.s.さすがに名前の誤字は酷いので至急修正しました(感謝)です!!
投稿: 朝比奈ひなた | 2014年10月19日 (日曜日) 22時18分