鉄道記念日を記念して鐡道趣味の特別展開催です

さて、今年度の特集は「相模鉄道」そうです「相鉄」さんを
特集してみますよぉ。でも実は私はそんなに相鉄は詳しく
ないので、ここは乗ってみる事にしました

さて、どうなるコトになるでしょうかぁ

不安だぁよぉ

そんな訳でやってきました神奈川県最大の駅「横浜駅」です。
JR横浜駅を中心に京浜急行線・横浜市営地下鉄線・東急線
みなとみらい線 そして相鉄線が乗り入れる巨大ターミナル

お蔭で横浜駅はいつも工事中です。まるでサクラダファミリア
状態です。いつ完成するのか不明です。恐ろし子・・・横浜駅
そんな横浜駅に乗り入れる相鉄は横浜駅の一番西口に駅を
構えています。相鉄横浜駅は髙島屋百貨店と相鉄ジョイナス
が入る巨大なターミナルビル2階にホームがあります (゚▽゚*)
相鉄横浜駅の中央改札口は2階と1階

たぶん1つの会社の駅では神奈川県最大数の自動改札機が
並んでいとおもいます。。少し数えたけど40台以上あるよぉ。
さすが1日の乗降者数は平均42万だけあります

【↑相鉄横浜駅 1番線となりの降車専用ホーム】
駅の中に入ると行き止まり式のホームが並んでいますよぉ

JRの線路がある方から1番線そして降車専用ホーム・そして
2番線・3番線・降車専用ホーム。凄く不思議な番号の付け方
です。降車ホームに番号を振らないので変則ですねぇ

単純に言えば3つの線路が駅に入りこんでいます。さてさて!
それにしてもホームが長いです。 相鉄線最大の編成は10両
編成。なので1両×20mなので200mもあるホームです

見ごたえ十分なターミナル駅です。素晴らしいです(≧∇≦)
それでは相鉄に乗って見ますよぉ。とても久しぶりで10年は
軽く利用していません。たぶん私にとって関東で最も印象薄
い鐡道ナンバー1な気がします。
何と言っても利用するのは

実は今回で3回目なんです

わたしが初めて相鉄に乗った時の強烈なイメージ。それが!
新しくもない古臭い電車。なぜか暗い車内。しかも凄く走るの
が遅いと・・・マイナスイメージで興味なかった・・・。
でも、久しぶりの乗ったらイメージアップしていましたよぉ!!
相鉄キャラクター(そうにゃん)も可愛いし、ラッピング電車も
良い感じです。
【↑ いまの相鉄路線図 クリックすると大きくなるよぉ(≧∇≦)】
カタカタ揺られて各駅「海老名」行に乗っていますよぉ。でも
昔と同じなようでぇ・・・ちょっと遅いですねぇ。
まぁ京浜急行と比べてなんで仕方がないよな気もするぅ

さて相鉄線は横浜駅から海老名駅までの相鉄本線(24.6km)
と二俣川駅~湘南台駅までのいずみ野線(11.3km)そして!
あんまり使わない元貨物駅の相模国分信号所~厚木駅まで
の厚木線(2.2km) 全線合計38.1kmあります。
今日は全部乗ってみますねぇ。それにしても相模鉄道。訳して
「相鉄」。そう言えばJRにも相模線があるので名前が似すぎて
メンドクサイ。しかも、海老名駅と厚木駅は相模線と繋がっる

凄く変な感じですねぇ ( ̄▽ ̄)
ああっ

このへんな感じは正しい感覚なんですよぉ( ̄ー+ ̄)
なぜなら

JR相模線こそ本家本元の相鉄なんですよぉ

そこで相鉄(相模鉄道さん)の歴史などを お話しましょう!
そんな訳で「砂利」です。上の写真は砂利です。砂利ですよぉ。
大切なので3回言いました。細かい小石です。 これが重要

ここでコンクリートの作り方をお教えします。ビルなどを建設す
る時に絶対に必要なコンクリート。これは「セメント」+「水」+
「砂」+「砂利」を混ぜて作ります。「砂利」を加えないで混ぜる
と「モルタル」になります。
よく火事の時に聞く「木造モルタル造り」のモルタルですねぇ。
さて、ここでコンクリートの話し。水・砂は調達は簡単なんです。
でも砂利は難しい。だって小石がたくさんある場所なんて無い。
あるとしたら河川敷くらいです。
時は関東大震災前後です。頑丈な建物を作る為にコンクリート
の技術が普及しはじめます。とくに地震が多い日本では良い
建築方法ですねぇ。そこで重要になるのが砂利ですよぉ。
そこで重要物資!「砂利」が大量に必要になりました。その大量
に砂利がある場所と言えば神奈川県下では相模川が一番です
そこで相模川から砂利を運ぶ鉄道を作ろうを考えました。
【↑大正15年 当時の相模鐵道線と神中鐡道線。大まかの位置把握用です】
大正10年(1921)9月28日に茅ヶ崎駅 - 寒川駅間が開業しました
そんな訳で、相模川の砂利を運ぶ目的なので貨物が主力です
これが相模鐵道です。おまけでお客さんを運んでる状態です。
開業してからは近くの相模川への支線がたくさんできます。この
支線で砂利を集めて駅まで運びます。 そこから茅ヶ崎まで運び
東海道本線経由で東京・横浜に送られていました。
砂利は儲かるので路線を神奈川県内陸へ延伸していきます。
大正15年(1926) 4月1日に寒川駅-倉見駅間が延伸開業します
ちょうど同じ時期に厚木-二俣川間を開業させたのが神中鐡道
と言う鐡道会社です。この鐡道は神奈川県の内陸部を結ぶこと
そして貨物(砂利)輸送のために作られました。
またまた砂利ですよぉ
【↑相模川で採取した砂利をトロッコで駅まで運ぶ様子です】
神中鉄道でも自社で砂利を採取する部門が作られていますねぇ
さすが「砂利」さまさま状態です
厚木駅―二俣川駅間(16.03km)が大正15年(1926)5月12日に
開業しますがぁ・・・。神中鐡道の凄いのは、厚木駅も二俣川駅も
他の鐡道と乗り換えできない。完全な陸の孤島状態でスタート
ただ、神中鐡道開業2か月後には、茅ヶ崎から路線延伸してきた
相模鉄道が厚木駅まで到達したので、どうにかぁ陸の孤島状態
から脱出ですよぉ。 でもねぇ( ̄▽ ̄)
戦前の神奈川内陸部には産業があまりないので早くも神中鐡道
は赤字を作り続けます。唯一の打開策はとにかく砂利が売りやす
い場所へ線路を延ばすこと
そう神奈川県最大の都市「横浜」への延伸しかない!
【↑ 撮影 宮松金次郎 神中鐡道2形1号機 無断転載禁止】そんな野望の横浜延伸を考える神中鐡道の主力は蒸気機関車
と客車でした。そして、写真に写されたのが貴重な神中鐡道1形
蒸気機関車ですよぉ!!!
神中鐡道では1形蒸気機関車を2両持っていました。ナンバーは
「1」と「2」です。この蒸気機関車は大正9年(1920)に米国で生ま
れました。ここで凄く不思議なことがおこります (・_・)エッ....?
蒸気機関車の完成が早すぎる。凄く早く出来ているのですよ!
神中鐡道開業は大正15年。さて6年間どこにいたのでしょうかぁ?
不思議機関車でもあり、更に面白いのが小さい蒸気機関車なの
に動輪が4つもあることです。これ日本では凄く珍しいですよぉ。
注目ですよぉ(゚▽゚*)
さて写真に写された「1」号車は戦後まで活躍をします。そして!
昭和26年(1951)に廃車になりました。30年間も神奈川県を走り
まくりました。凄いねぇ!! エライ!!
【↑撮影 宮松金次郎 昭和6年 相模鉄道厚木駅 無断転載禁止】こちらは神中鐡道が開通した大正15年に相模鐵道に採用された
相模鉄道1形蒸気機関車の4号機です。 同じ形の機関車は4両
いました。相模鐡道では貨物・客車を引っ張って大活躍

その後は国鉄の買われてしまいます。その時ナンバーも変わり!
国鉄1335号機になります。しかも国鉄での活躍は短いのです。
昭和23年(1948)1月に写真に写された1号車→1355号車は廃車
になります。その後、今の福島臨海鉄道(小名浜臨海鉄道)に引き
取られ走りますが昭和36年(1961)には廃車になりました。
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神中鐡道・相模鐡道を写した写真のこと
さて、実は戦前の神中鐡道を写した写真は凄く少ないのです

1冊千円もする本ですら数枚しかありません。そこで今回は宮松
コレクションから相鉄50年史・60年史で掲載された写真を中心
に公開しています。また、写真は汚れなどを修正して復元をかけ
撮影当時の美しい画像を見てもらっています。
本来なら著名な鐡道史家のコメントを付けるに値する写真なのに
貴重な写真貸して頂いき。ありがとうございます。
改めて宮松慶夫さんに心より感謝します。
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さて、ここで再度の神中鐡道の路線のお話です(* ̄ー ̄*)
大正15年(1926)に神中鐡道が開業してから赤字打開のために
路線延長を始めます。まずは、砂利を売る為に大量に消費して
くれる横浜を目標に進みみます。
実は、当時の横浜市は関東大震災の復興を目指す大工事が
進んでいました。横浜駅まで延伸すれば赤字を逆転できること
間違いなし!! もぉ! お客さんより砂利です!
なので

直ぐに延伸します

開業と同年の12月には星川駅(現・上星川駅)まで延伸します。
昭和2年(1927)には星川駅―北程ヶ谷駅 (現・星川駅)までの
延伸をします。
それにしても神中鐡道は物凄い勢いで線路を伸ばしています。
調子よく延伸してきたけど、ここからはペースが落ちます。
北程ヶ谷駅開業からまた2年かけて昭和4年(1929)2月14日に
1.5km延伸して西横浜駅まで線路が延びました(v^ー゜)!!
ここで待望の! 悲願の! 東海道本線と接しましたぁ

このとき西横浜駅の近くには横浜市電の停留所がありました。
これにより横浜市内と神奈川内陸部が神中鐡道で部分的に
結ばれました。ここにきて初めてお客さん運ぶのも儲かるかも!
神中鐡道さんは考えました!
そこで電車では無く。ガソリンで走る気動車を導入します(゚▽゚*)
これからガソリンカー王国 神中鐡道のスタートです。
また、路線も昭和6年には1kmだけ延伸して平沼橋まで来ました。
ここまで来ると横浜駅へは残り400mだけです。頑張れです!!
昭和8年(1933)12月19日に念願の横浜駅に乗り入れを開始です。
当時の神中鐡道横浜駅はいまの髙島屋百貨店付近にありました。
これで安泰 念願の横浜到達おめでとうです(*^ー゚)bグッジョブ!!
【↑撮影 宮松金次郎 昭和14年(1939)7月30日 神中鉄道横浜駅近く 無断転載禁止】念願の横浜駅に乗り入れてから約6年後です。 宮松金次郎さん
は横浜駅付近に鐡道写真を撮影しに来ていました。宮松さんが
撮影場所に選んだのが、いまの相鉄ジョイナスがある場所です。
この撮影場所の後方に東京横浜電気鉄道(東横線)の高架橋が
見えます。いまは東横線の横浜駅-桜木町駅間の廃止で高架も
部分的に壊されて昔をしのぶことが出来ません。
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さて、撮影された凄い編成は神中鐡道キハ1形+キハ30形です
先頭のガソリンカーは流線型の美しいですねぇ。このガソリンカー
は神中鐡道が東京横浜鐡道から昭和14~15年にかけて6両購入
した中古車です。でもでも中古車でもぉ ( ̄▽ ̄)
結構! 新しいガソリンカーなんですよぉ。
もともとは昭和11年(1936)に東京横浜鐡道の東横線で走って
いました。当時は看板電車で沿線案内のパンフレットの表紙を
飾るほどの人気者でしたがぁ・・・・

でも、この車両は坂道を走るのは苦手なガソリンカーなんです。
東横線のアップダウンが多い線路には向いていなかったようで
登場してから・・・なんと4年で東横線を引退してしましますぅ

そんな時に輸送力向上目指す神中鐡道で購入しました。
1両の大きさが約17.7mそして定員116名(座席定員52名)の
当時の神中鉄道では最大のガソリンカーでした。しかしですよぉ。
ガソリンで走るガソリンカーは戦争で動けなくなります。そこで!
昭和17年(1942)4月キハ1・5・7号車には木炭で走るスペシャル
装置を無理やり付けましたがぁ。なんと数日後の4月23日には
5号車が火災で炎上してしまします。なんか・・・ついていない

【撮影 宮松金次郎 神中鐡道キハ30形 昭和12年 転載禁止】神中鐡道キハ1形に連結されているのが神中鐡道キハ30です。
昭和10年-11年(1936)にかけて日本車両東京支社で6両作られ
ました。大きさは12mそして定員66名(座席定員38名)でした!
写真が撮影された当時は、旅客輸送も活況でガソリンも不足なく
元気に走っていました しかも、嬉しい事に横浜駅に乗り入れてか
らは、お客さんも劇的に増えました。
そこで混雑する時はキハ1形と連結したり、空いている時は1両で
走るという大活躍です。しかも、蒸気機関車にも連結されて客車
の替わりにも勤めました。
このキハ30形も戦争で大きく運命を変えますよぉ昭和18年(1943)
にはガソリン不足と神中鐡道の電化で余剰になりました。そこで
東武鐡道・新潟交通・神戸電鉄へ売られていきました。
ちょっと寂しいすぎる・・・

【↑撮影 宮松金次郎 昭和14年(1939)7月30日 神中鉄道横浜駅近く 無断転載禁止】
こちらのガソリンカーは神中鐡道キハ50形の53号車ですねぇ。
昭和12年-15年(1940)までに日本車両東京支社で5両が作ら
れました。 登場時はキハ40形と言う名前でしたが途中からは
キハ50形とう名称に変更されました。
このガソリンカーも流線形が綺麗ですけどねぇ。何と言うか凄
く野暮ったいです。それでも大きさは約14.3mまた定員も80名
(座席定員48名)神中鐡道が製造したガソリンカーでは最大の
大きさでした。
神中鐡道では旅客輸送も延びてきていました。
昭和9年(1934) には1,006,007人
昭和12年(1937) には2,504,263人 約2倍以上もの伸びです。
しかし、神中鐡道は意外な窮地に陥ります。また「砂利」です。
相模川の砂利を乱獲した為に川の治水に大きな影響が出て
しまい砂利の採取制限が始まり好転してきた経営が徐々に!
悪化していきます。
経営が悪化する神中鐡道を待ってましたとばかりに昭和14年
(1939)11月20日。臨時株主総会で東京横浜電鉄社長の五島
慶太によって買収されてしまいます。こうして東急傘下の地方
鐡道になりました。
その前には相模鐡道の株式も買収されてしまいます Σ(゚д゚;)
従って相模鉄道も神中鐡道も社長は五島慶太さんですよぉ

そして五島さんは東京横浜鐡道でゴミになった電気施設を!
神中鐡道に売り付けます。このゴミを使って神中鐡道を電車
で走る路線にしようという魂胆です。さすが商人ですねぇ!!
【五島慶太率いる東京急行の路線図 自社以外も同じ扱いで書いてある】
【↑クリックするとおおきくなるよぉ 路線図 朝比奈ひなた所蔵】東急の傘下になってから2年後の昭和16年12月8日から戦争が
はじまります。初めは景気よく勝っていたので問題ないのですが
そのうち負けて! 旗色が悪くなります。
そんな昭和18年(1948)4月1日に相模鐡道が神中鐡道を吸収
合併します。もちろん、どちらの会社の社長も五島慶太なので
儀式的に終了です。
そんな新生相模鐵鐡道。けっこう優良な鐡道になっていました。
厚木周辺には海軍の基地や工場。相模原には陸軍士官学校
などなど軍の施設がたくさん出来て景気良くなります。
でも、軍事景気には必ず天罰があるようで、昭和19年(1944)の
6月1日に戦争の激化に伴い。新生相模鐡道の旧相模線が戦時
買収私鉄に指定されしまいます。もう強制的に国有化されてしま
ます。この時に強制買収さた路線が現在まで続く「相模線」です。
そんな訳で新生相模鐡道に残ったのが旧神中鐡道線だけでした。
でも国に強制的に買われる前に合併したので「相模鐡道」の名前
だけは残りました (v^ー゜)ヤッタネ!!
でも、めんどくさいです。今の相模鉄道は現・神中鐡道線であり。
旧・相模鐵道線は現・相模線と覚えることに・・・なんか複雑だあ。
そんな相模鐡道は昭和22年(1947)6月1日に東急傘下から独立
鐡道業務を自社経営に戻しました。この先の歴史は私はとても!
不得手なのでやめにしますねぇ。戦後史はあんまり好きじゃない。
でも1つだけお話しておきます (゚▽゚*)
戦後 相鉄のターニングポイント横浜駅西口の開発
お話は戦前に戻ります。もともと横浜駅西口という場所は不毛な
地帯でございました。なんせ横浜の中心地は桜木町よりさきです。
なので、今の横浜駅周辺は寂しかぎりでした。
昭和6年に現在の横浜駅が完成しても駅舎は東口だけ。しかも!
メインの横浜駅東口さえ賑やかさには縁遠い状態でしたΣ(゚д゚;)
特に横浜駅西口は米国の石油大手のスタンダード石油㈱が広い
敷地を持っていました。本当なら石油タンクを設置する予定でした
が計画が中止になり荒地のまま戦争でになります。
米国資産なので日本政府によって差し押さえられます。がぁ戦争
負けたので戦後にはスタンダード石油㈱に権利が戻りました。
【↑昭和22年(1947)横浜駅西口の航空写真 赤枠がスタンダード石油用地】
この土地を昭和26年(1951)スタンダード石油が売ることになります
ここで競争です。相鉄・横浜市・その他1社で競売にかけられました
そして、相鉄が横浜駅西口の広大な土地24,700m²を入手に成功!
この土地こそ相鉄の発展を約束する原動力になっていきますねえ。
昭和28年(1953)には西口の大規模区画整理がおこなわれます!
上の航空写真では川などが入り込んでいますが、この区画整理で
今の横浜駅西口の街の基礎が出来ました。
ああっ。話しても話しても海老名に着かないよぉ・・・・・。
余りにも話疲れたので少し寝ますよぉ

戦後の相鉄の歴史は
今風な親切な入門書が一杯あるし

しかも、インターネットのHP
も数えれないほどありますので

そちらを見てくださいねぇ
そんな朝比奈ひなたが贈る。
鉄道記念日特集でした!!
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宮松コレクションより貴重な写真をお借りいたします。
文末ですが宮松慶夫さん ありがとうございました!
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