青いデイトナビーチへ 夏ダイヤの京浜急行 品川駅は大忙しです! 宮松コレクションで見る(Ⅶ)
序文として
東京から横浜・横須賀三浦へ。赤い電車と白い線でお馴染
みの京浜急行が開業して120周年になるそうです(*゚▽゚)ノ
そんな年に京浜急行の特集記事を書いてみます。もちろん
多くの有名なブログさんには京浜急行について面白い歴史
&車両などなど詳しい記事がいっぱい書いてあるんですよ。
そこで、朝比奈ひなたさんは最近では語る人も少なくなって
きた、あのキラキラ輝く夏。そう、夏と言えば海水浴。京浜急
行がテカテカと輝いていた時代。そう、昭和50年代そして特
に昭和51年(1976)頃の「京浜品川駅」と「夏ダイヤ」につい
スポットを当て少し書いてみますねぇ。 (=゚ω゚)ノ o(_ _)oペコッ
今回の特集記事作成に当たり宮松慶夫さまのご厚意により
宮松コレクションから初公開になる貴重な写真をお借りでき
ました。 また記事作成に当たり当時のことを知る方々に聞
き取り調査をしました。ここで重ねてお礼を申し上げます。
序文としては最後になりますが展示している宮松コレクション
の写真保存は遠慮下さいますようお願いいたします(*゚▽゚)ノ
【↑都心直通・三浦海岸駅・三崎口駅の記念切符】
《§1 北へ南へ伸びる新しい路線
三浦海岸駅開業・都心乗り入れ・三崎口駅開業まで》
昭和39年(1964)10月10日に開催された東京オリンピックを
境目として京浜急行は北は押上から順次開業してきた都営
地下鉄線との乗り入れ工事。また、南側は久里浜線の延伸
工事の二正面態勢で大工事をしていました。
まずは京浜久里浜駅から随時延伸工事がスタートします!
昭和38年(1963)には野比駅が開業。3年後の昭和41年に
は2.5kmを延伸して京浜長沢駅・津久井浜駅まで開業し
ます。その年の7月7日には三浦海岸駅が開業(≧∇≦)
この、三浦海岸駅が開業したのは場所は三浦市上宮田と
言います。本当は「上宮田」と言うとても無難な駅名だった
のを京浜急行さんは三崎観光の中心地として魅力ある名
前を考えて「三浦海岸」という名称をつけました(*゚▽゚)ノ
そして、「三浦海岸」を京浜急行の海のリゾートの拠点とし
て大宣伝を始めたんです( ̄ー+ ̄)
【↑ 飛行機から見た三浦海岸だよぉ(*゚▽゚)ノ 】
この時のキャッチフレーズがアメリカのフロリダのデイトナ
・ビートと地形が似ていると言う少々無理がある理由から
「青いデイトナビート」と決まり。この年から三浦海岸では
派手な三浦海岸フェスティバルを毎年開催していきます。
宣伝の効果もあって昭和41年(1966)7月31日(日曜日)に
は電車・バス共に当時1日当たりの収入記録を達成!!
その累計は(7月16日~8月15日だけで)当時の金額で約
11億8000万円の大爆発でございますヽ(´▽`)/ ヽ(´▽`)/
三浦海岸駅開業から2年後の昭和43年6月21日は念願
の都心への乗り入れが開始しました。約1.2kmを延伸す
るために使った労力は約182,250人。使ったコンクリ―
の量4万2,120立方メートル。かかった年月は約5年とい
う恐ろしい難工事を突破して電車は都心方面へと走りだし
ました。これで千葉から都心を経由して三浦海岸まで直通
することが可能になり三浦半島が関東近辺の手軽な観光
地へと魅力アップです(v^ー゜)ヤッタネ!!
そして昭和50年(1975)4月26日に三崎市の玄関口として
三崎口駅が暫定ながら開業します。こうして昭和50年まで
には今の京急本線&久里浜線の形が出来上がりました。
【↑三浦海岸駅&都心直通運転直後の京浜急行路線図】
《§2 海水浴と京浜急行沿線に造られたリゾート施設》
都心と繋がった京浜急行さんは流行りの海のリゾート施設
も造っていきます。昭和43年(1968)4月27日には東洋一
の大水族館「京急油壷マリンパーク」。昭和44年(1969)6
月30日には三浦海岸での拠点「京急三浦ビーチセンター」
が開業します。ビーチセンターにはロッカー・シャワー室・休
憩所がありました。また、レンタルサイクリングが300台常
備してある豪華な海の家でした。 また、三崎市の金田湾に
は京急フィシングセンターなど色とりどりの施設がありまし
た(*゚▽゚)ノ
【↑ひなたオリジナル 三浦半島観光マップだよぉ↑】
宿泊施設として城ヶ島温泉ホテル・観音崎ホテル・津久井
浜のケイプシャトーなど三浦海岸・三崎などは京浜急行の
リゾート施設が点在する観光スポットになりました。夏の海
でのリゾートは関東近県では京浜急行が一手に引き受け
る状態が始まりますヽ(´▽`)/
三浦海岸駅が開業した昭和40年代は海水浴シーズンに
なると恐ろしいほどのお客さんが京浜急行へ殺到するコト
になっていくのですΣ(゚□゚(゚□゚*)
【↑昭和50年頃の京浜急行沿線パンジレット PCなら大きくなるよ】
《§3 殺人的な海水浴輸送で電車は大奮戦です》
この殺人的な混雑を京浜急行さんはお得意の変態的な行
動力(ダイヤ)で対処していきます。それは古い電車でも新
しい電車でも走れる電車すべて総動員して限界まで動かす
Σ( ̄ロ ̄lll) Σ( ̄ロ ̄lll)
京浜急行では、夏の海水浴シーズンの1か月ちょっとの期
間は特別なダイヤで運転していました。俗に「夏ダイヤ」と
呼ばれていました。普段の平日ダイヤとか休日ダイヤとは
かなり違い、無理やり感が凄いダイヤの季節だったのです
(*゚▽゚)ノ
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…
※「夏ダイヤ」と言う言葉の始まりは・・・実は家の書庫を
探し回っても正式な答えはちょっと解りませんでした
京浜急行の戦前からのダイヤ詳細は不明な点が多い
ので答え知っていたら! 教えてε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダァ
ちなみに夏ダイヤの最後は平成7年(1995)7月24日~
8月24日に実施されたのが最後で今は行われいませ
ん(*゚▽゚)ノ
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…
特に有名なのが、当時もっている約500両の新旧の電
車を総動員して限界まで使い倒して輸送した昭和45年
(1970)6月21日からの夏ダイヤです。もう限界への挑戦
でございました(*゚▽゚)ノ
★品川-三浦海岸間の臨時海水浴特急を朝夕に10分間隔
★横浜-京浜久里浜間に臨時海水浴特急を朝夕に10分間隔
これすべて臨時特急電車(不定期列車)なのです(*゚▽゚)ノ
だから、通常の電車も走ります!
☆都心からの直通する三浦海岸行き 特急電車が20分間隔
☆品川駅から逗子海岸へ向かう特急電車が20分間隔
☆当たり前だけど普通も急行電車もあるよぉ!!
これが朝夕に一度に走りだすと横浜-金沢八景には10
分間に特急電車だけで3本も通過する。恐ろしい過密ダ
イヤになってしまった、しかもオンボロな電車さえも特急
でガンガンスピード上げて走る始末ですよΣ(゚□゚(゚□゚*)
こんな恐ろしい運転をしても品川駅を出発するときに満
席では「ママ素敵パパご機嫌」とはいきません。 海に着
く前に疲れてしまう。そこで臨時の海水浴特急以外にも
「50円で座れる夏の特別列車」を運転してみたよ(゚▽゚*)
50円で座って行けるなら「ボクご機嫌 行こう 行こう海へ
赤い電車に白い帯 京浜 京浜 京浜急行」ってことで!!
これが昭和45年からスタートした「みうらビーチ号」だよ!
【↑デビュー当時の「みうらビーチ号」京浜川崎駅を出発する】
みうらビーチ号の停車駅 [昭和45年(1975)のダイヤ]
品川駅を8:12・8:32・9:15に出発して→京浜川崎駅→
横浜駅でお客さんを乗せて京浜久里浜・津久井浜・三
浦海岸に停車していきます(゚▽゚*)
みうらビーチ号は有料料金特急なので品川駅・京浜川
崎駅・横浜駅では乗車券「座席料金」を窓口&立売りで
発売していましていました。さて、どんな販売方法だった
かと言うと(*゚▽゚)ノ
【↑ みうらビーチ号の座席券】
みうらビーチ号用に予め予定数の乗車券を用意します。
各駅でひたすら売ります。品川駅からビーチ号が出発し
たら売れ残った券数を京浜川崎駅に電話で伝えます!
その分も京急川崎駅は頑張って売る。そして、またも売
れ残れば横浜駅に電話して、その分をもっともっと頑張
って売るという人海戦術で対応していましたΣ( ̄ロ ̄lll)
また、不正乗車を防ぐために品川駅・京浜川崎・横浜で
は一部のドアだけを開けて添乗していた営業課の職員
さんが乗車券の拝見をしていました!!電車も職員さ
んも人海戦術です!!
この「みうらビーチ号は」後から三浦海岸フェスティバル
の歌の祭典スポンサーだったラジオ局「ニッポン放送」
さんだったので「愛称は周波数1240」がついた「ハッピ
ー1240号」なんで愛称がついた年もあったよ(*゚▽゚)ノ
昭和52年からはスポンサーがラジオ関東(ラジオ日本)
に変わり当時、京浜急行が提供していた番組と同じ名
前の「ミュージックトレイン」と列車名が変わりました
そんな訳で愛称がスポンサーと共にコロコロと変わる
面白い電車だったのですよぉヽ(´▽`)/
昭和45年~昭和48年 みうらビーチ号
昭和49年(1974) うみらビーチ・ビバハッピー号
昭和50年(1975) ハッピー1240号
昭和51年(1976) みうらビーチ号
昭和52年~昭和55年 ミュージックトレイ号
昭和56年(1981) アメリカンエキスプレス号
昭和57年~平成2年 ミュージックトレイン号
平成3年~平成6年 みうらビーチ号
【↑昭和50年代には毎年おもしろい愛称版を掲げていたよぉ】
愛称がコロコロ変わるので電車の先頭に掲げる愛称
看板も最盛期にはユニーク作品が多かったんだよぉ。
特に、ひなたお気に入りなのが昭和53年の愛称看板。
もう、サイケな感じで京浜急行の列車看板では1番フ
ァンキーな感じだと思う(≧∇≦)
さて、こんな名称が付いた有料特急だから向かい合
わせの座席の快適な快速特急電車(600形)を使用
したかと言えば初めはそうだったんですが昭和47年
(1971)から昭和57年(1982)までの長きに渡り1000
形(ロングシートの冷房電車=普通の電車)を使っ
ていましたΣ( ̄ロ ̄lll) Σ( ̄ロ ̄lll)
当時でも非常に珍しすぎるロングシート電車で座席
料金を徴収する不思議な臨時特急だったのでした。
そうそう、この不思議な「みうらビーチ号」にはもう1つ
の役割がありました。それは三浦海岸でのイベントに
出演する芸能人を輸送するお仕事。道路渋滞に巻き
込まれないでステージに間に合うように、この電車の
最後尾の車両が出演者専用車両として使われました
(*゚▽゚)ノ
そんな嵐のような昭和40年代を乗り越えた京浜急行
さん。オイルショックなので景気わるいのでレジャーは
少し落ち目になったけど、まだまだ夏=海の勝利の方
程式は続いていました。
《§4 昭和51年 京浜急行 品川駅は朝から大忙しです》
昭和48年(1973)6月24日からの夏ダイヤから少しづつ
変わっていきした。まずはコノ年から「海水浴特急」と言
う臨時特急の名前が「快速特急」と呼び方が変わりまし
た。この時に初めて快速特急の停車駅に京浜蒲田駅と
金沢八景が加わりました。もちろん、夏ダイヤ時の臨時
停車扱いだけどねぇ。
昭和49年(1974)6月30日からの休日夏ダイヤでは翌
年までの臨時運転した快速特急の半分が通常の運行
として走りだしました。これで休日は品川駅-三浦海岸
駅間を終日運転されるようになりました(*゚▽゚)ノ
こうして見ていくと特別な海水浴電車から徐々に普通
の多客期ダイヤへとシフトしていくのが良くわかります。
だからといって海水浴シーズンがある限り京浜急行は
大混雑でございます。京浜急行を扱った雑誌や本では
40年代以降は海水浴輸送の衰退と書いてあるけど!
実際はやっぱりイモ洗い状態なのですヽ(´▽`)/
さぁ~昭和51年(1976)夏の品川駅に行ってみよう!!
【↑国鉄線から見た京浜急行乗り換え出札窓口】
やってきました。東京城南地域の玄関口「国電品川駅」だよ
国鉄から連絡通路を通って着いたのが京浜急行の乗車券
出札窓口だよぉヽ(´▽`)/
ここで、国鉄線からの乗車券の精算と京浜急行線の乗車券
を買いたいんだけどぉ・・・・窓口は遥か彼方にあるよぉ
そして人だかりで近視では遠くの運賃表が見えないよー!
「三浦海岸までいくら????」Σ( ̄ロ ̄lll) Σ( ̄ロ ̄lll)
もちろん京浜急行さんの駅員さん達も大奮戦中でございま
す。通常の窓口以外にも臨時窓口を左右に設置しての迎
撃態勢なのですがお客さんの数に押され気味ですよぉ
連絡出札窓口の上には横断幕に「お得な切符」の情報が
書いてあります。えっと・・・どんな切符あるのかなぁ??
京浜急行品川駅から京浜急行一押しは(*´ω`*)
「三浦ビーチ割引乗車券 大人1420円 子ども800円」
三浦海岸往復乗車券・房総金谷往復乗車券・逗子ビーチ
センター割引セット券・逗子海岸往復乗車券・三崎口往復
乗車券。品川駅の駅員さんに聞いたところでは、やっぱり
一番人気は「三浦ビーチ割引乗車券」のようです(*゚▽゚)ノ
【↑国鉄線から京浜急行線へ乗車券を買うお客さん達】
どのお客さん達も自宅から朝早く出かけて品川駅にたど
り着いたけど駅は大混雑です。もちろんSuicaやPASM
Oもない時代。現金片手に長い列で我慢比べだぁ(*゚▽゚)ノ
頑張って出札窓口にたどり着いたら国鉄からの乗車券を
駅員さに渡して京浜急行線の切符を買います。売る駅員
さんも「大人3枚と子ども5枚」と言われれば神業的の暗算
で直ぐに料金を伝えますΣ( ̄ロ ̄lll) Σ( ̄ロ ̄lll)
窓口で切符売る駅員さん達は京浜急行随一の名人級ぞ
ろいだったよぉ。 次々とお客さんを捌いていくよヽ(´▽`)/
【↑国鉄から京浜急行線への連絡改札を進む人の波】
そんなこんなで京浜急行線の乗車券を買えたとしても京浜
急行線のホームへは人の流れに乗っていかなければ
出札窓口の左右の改札口には混雑を防止するために、向
かって左側を国鉄線からの入口。 右側を国鉄線への出口
と分離しています。これ分離しないと恐ろしい事になってし
まうよぉ。もうキャパ超えている気がするよぉΣ( ̄ロ ̄lll)
【↑朝比奈さん お手製京浜急行品川駅構内図】
これほどのお客さんを一気に対応するには普通の考え方で
は当然無理があるのです。通常のダイヤの時は現在と同じ
ように品川駅のホームは割り振りされていました(*゚▽゚)ノ
1番線は京浜川崎・横浜・三浦海岸方面へ出発する下り電車
専用ホーム。2番線は品川駅止まり・都営京成線方面の上り
電車専用ホーム。3番線は臨時ホーム。これは今と同じだか
ら京浜急行に乗ったことがある人は知っているよね(≧∇≦)
【【↑朝比奈さん お手製京浜急行品川駅構内図】
しかし、そんな普通の事をして対応できるわけありません!
そこで京浜急行品川駅の能力を最大限利用できように発着
番線を夏ダイヤでは大幅に変えて対応しますΣ( ̄ロ ̄lll)
1番線は横浜・横須賀中央・三崎口方面の特急・急行・普通
電車の下り電車が出発するホームにします←これ普通
2番線は都営京成線方面の上りホーム&下りの快速特急
三浦海岸行き電車ホームとして使用しますΣ(゚□゚(゚□゚*)
3番線も遊ばせません。6両編成しか停車できませが特急
久里浜駅行きのホームとして使用します。と言うことは!!
1番も2番線も3番。全部の番線から横浜・横須賀中央方面
の下り電車が出発することになります。狭い1番線ホームに
お客さんを集中する訳にも行かなので駅構内で分散する為
の苦肉の策を実施していまいしたΣ( ̄ロ ̄lll) Σ( ̄ロ ̄lll)
【↑国鉄線から見た京浜急行線の連絡改札口】
そんな全部の番線から下り電車が出発するので改札口の
上には横断幕で「のりば案内」が注意書きとして書かれて
います。さすがに、これだけ突然ホームの位置が変わると
大変だよねぇ~知っていても迷ってしまうよ。しかもです!
スマホも無い時代なのです。スマホを頼りにウロウロすれ
ばOKという時代ではありません。自分自身で考えないと
正しいホームまでたどり着かないのですよぉ-(*゚▽゚)ノ
【↑1番線到着 その場で折り返し 特急三浦海岸行き 】
さて、これだけ出発するホームが変わると運転関係の方々
も大忙しだよ。上り電車を2番線に停車させて。乗り降りが
終わると引き上げ線に進ませ。ここで折り返して下り電車
として1番線へ進ませ出発させる。こんな普通な対応では
絶対無理なんです
【↑品川行き1番線到着 そのまま折り返し作戦】
そこで、手始めに考えたのが上り「特急 品川行き」電車を
下り線へ逆走させて直接1番線で折り返し」運転をする方
法。これなら引き上げ線に電車を進める必要が無いので
時間短縮できるねぇ*゚▽゚)ノ
【↑品川行き1番線到着 引き上げ線経由 2番線発車】
または、同じく上り電車を下り線へ逆走させて1番線でお
客さんを降ろして引き上げ線に向かいます。そして、2番
線の上り電車(都営京成線方面)が到着する隙を縫って
2番線に到着させて三浦海岸駅行きとして出発させます。
そんなアクロバットな運転を実施する為に、いま京浜急行
600形632号車を先頭に8両編成の電車が京浜急行品
川駅1番線に到着しようとしています。この先頭を走る電
車さんを見ると屋根には冷房装置がありませんよ! だか
ら非冷房と思うでしょぉ(*゚▽゚)ノ
実は冷房化魔改造の餌食になってしまい冷房装置を全
て床下に収められた恐ろしい仕様なのです。だから天井
から冷気をだす普通の常識は通用しません。実はクロス
シートの窓下に吹き出し口があると言う・・・凄く足が冷え
る謎仕様の冷房装置を積んでるのだぁーΣ( ̄ロ ̄lll)
【↑ラッシュ激しい8:45分 電車に乗りこむ人々】
さて、昭和51年当時の京浜急行品川駅は現在と比べてホ
ーム8両編成分しかなくホームの幅も狭かったので混雑す
ると大変なんだよぉ-。それにしても海水浴へ行く子ども連
れの方々。また仕事へ行く人達でホームはただでさえ熱い
のに熱気でムンムンだよぉしかも電車も床下からの
熱気で湯気が出そうだよ・・・・。
【↑まだ冷房化されていない夏の700形】
そうそう。まだまだ冷房車が少ない時代なのですよー
昭和46年(1971)から京浜急行では冷房化工事が始まって
まだ5年後なので非冷房の電車達がガンガン来ますよー
il||li _| ̄|○ il||li
特に写真に写る京浜急行700形電車さんは、1両にドアが4つ
あるので普通の電車より開く窓が少なくて夏場は換気悪すぎ
て地獄の棺桶と呼ばれた由緒ある電車さんですΣ( ̄ロ ̄lll)
それでもクールズビズって何って時代だけど、よく写真を
見ると今より開襟シャツとワンピースの人が多くて今より
凄く涼しげに見えるとねぇ。なんだか面白いと思いました。
そうそう、京浜急行が冷房化100%に達したには昭和51
年から12年後の昭和63年7月26日まで待つことになりま
す。まだまだ夏場は窓全開で電車が走る時代でした!
【↑1番線ホームから2・3番線ホームへと移動すお客さん】
全ホームから下り電車が出発するとなると国鉄線から来た
お客さん達は2番・3番線ホームへの移動は意外と大変な
んです。今のように品川駅には跨線橋が無い時代なので
高輪口改札へと下る階段を使って線路の下を回って2・3
番線ホームへ移動しますΣ( ̄ロ ̄lll) Σ( ̄ロ ̄lll)
【↑8:43発 快速特急 三浦海岸行きを2番線で待つ人々】
さて、上り電車も下り電車も、当駅止まりも停車するカオス
な2番線ホームには車両1両対して1名は必ず対応できる
じゃないかと思うほど駅員さんが厳戒警備で待ち構えてい
ます。写真を拡大して確認できるだけで10名の駅員さん
達がいます。これだけ駅員さん達がいればホームから転
落事故も防げそうです!
【↑2番線到着 折り返し 快速特急 三浦海岸行き】
さて、2番線に到着したのは、上り都営京成線方面が出発
する隙をついて、その場で折り返しする「快速特急 三浦海
岸行き」1000形電車さんです。 この列車は1266号車が
先頭に立った8両編成の電車さん達です(*゚▽゚)ノ
実は、この1266号車さんは登場当時は1262号車でした。
昭和46年(1971)7月に京浜急行では初めから冷房車とし
て作られた初めての1000形グループです。大人の事情で
番号を変えられて調べるのメンドクサイ電車でもあります。
写真が撮影されたのが昭和51年だからデビューして5年
後だから、まだまだピカピカな電車さん達ですねぇ(*゚▽゚)ノ
【↑2番線発 600形で運転する快速特急 三浦海岸行き】
次々と京浜急行品川駅の各番線から下り電車が出発して
いきます。当時の花形で冷房装置を積んでいる600形電
車さんは大人気です。お蔭でホーム人で溢れかえります。
2つ扉電車だから乗り降りも普通の3扉電車さんと比べて
も遅く。出発する2番線ホームは大混雑ですねぇ(≧∇≦)
これだけホームにお客さんがいると整列乗車どころではあ
りません。整列したら3番線に落ちるよぉ・・・。しかも、始発
駅でこれだけ混雑するんだから途中駅から乗れるのだろう
かぁ???
【↑ 3番線 9:07発 特急久里浜行き】
3場線には品川始発6両編成の特急京浜久里浜駅行きが
到着しました。さすが非冷房の電車&三浦海岸駅に行くと
なると乗り換えが必要だから、乗るお客さんも少なめです。
こうして京浜急行品川駅は夏の大混雑を人海戦術&持て
る施設を最大限に活用して乗り切っていました(* ̄0 ̄)ノ
いまから約40年ほど前の京浜急行の思い出です。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…
さてさて、写真の解説文を書いている朝比奈さんなんです
が昭和51年にはとっくに生まれていると思うかも知れませ
ん。でも、実は朝比奈さんはまだ生まれていません
なので、今回は当時を知る人達に聞き取り調査をしました。
だって本&映像で当時の様子を知ることは出来ないでしょ。
お蔭でわたしが生まれる前の日々の日常を知る事ができ
て面白かったよぉー(≧∇≦)
京浜急行は今年120周年を迎えます。たくさんのブログ
で特集記事をお書きになる方がいると思います。そこで
絶対に取り上げる方が少ない夏ダイヤについて書きまし
た。ゆがんだ性格だことでぇ・・・如何だったでしょうか?
今回の記事を書くにあたり。当時の品川駅の風景を収め
た宮松コレクションをお借りできて当時の雰囲気を知るこ
とができました。また、最後になりますが文章作成に対し
てご協力いただいた方々に感謝して文末とします。
平成30年(2018)6月1日
主筆 朝比奈ひなた
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海水浴特急がガンガンと走ったあの頃を昨日の事の様に思い起こしながら拝読いたしました。
お礼に海水浴運行に絡む私の記憶を披歴しますね。
海水浴輸送に向けて京浜急行では先ず全車輌の検査を6月中に済ませて備えました。
停車駅を絞った海水浴特急でしたが、特急とは平行ダイヤでした。従って加速の劣る400-500形や600形は海水浴特急に回りました。8輌運行に備えて、空制の吊掛車400-500形には電磁給排弁が追加され、運転台のブレーキ弁ハンドルの下には径15cm厚さ7〜8cmの円筒状の機器が付きました。
特急は専ら1000形でしたが、その代走に230形が入ったのを昭和42年に上大岡駅で見ています。1000形に次ぐ加速性能の230形ならではの事でした。
昭和44年の夏は浅草線直通特急も休日に限り8連となり、京浜急行初の運転台貫通路を幌で継いだ姿が出現しました。京浜急行贔屓の身には、誠に幼稚でばかばかしい事ながら、他社には当たり前の幌継なぎの無かった事が唯一コンプレックスであったのですが、それが解消されたのでした。
当時、1000形2連は1069〜78の5本だけ、必要運用数は6本でしたから、1049〜68の4連の内から1運用を組成しました。4連で幌装備の編成は確か1049かとは思いますが、定かではありません。
幌枠は室内と同じ若草色で、赤い車体の正面にはよく目立ちました。数年後には黒の緩衝用ゴムが貼られる事になりましたが、若草色の方が他社に比べて独特で私はすきでした。
昭和45年になると、京成特急〜都営急行〜京浜急行特急と継げて、成田〜逗子間に直通特急が2往復加わり、千葉方面から湘南へ、神奈川方面から九十九里浜への利便も図りました。これは4年間続きました。
平日の海水浴列車みうらビーチ号は、その送り込みはまだ朝ラッシュに掛かっていました。通常は1000形8連でしたが、夏期は有料列車で折り返す故に600形となり、冷房化された車輌専属として窓には号車番号のステッカーを貼り放しにしてありました。文庫→新町間は10連としました。しかし、扉数は24→20に、定員は1120→1200なるも詰め込み能力の差で、上大岡では積み残す事態(これも目撃)となり、翌昭和47年からは1000形冷房車となり、ロングシート有料列車の登場となったのでした。
尚、昭和45年には夕刻に三浦海岸でのハワイアンショウへの誘客用にハワイアン号を600形で有料運行しました。まあ、今のウィング号のハシリでしょうか。まだ冷房車はありませんでしたから、涼の演出に青色の蛍光灯照明としました。試しに乗って見ましたがなかなかの心理的涼感でしたし、下車後に見る走り去る青い室内照明は幻想的でもありました。数日後、朝の通勤列車で乗り合わせましたが、日ノ出町の先でトンネルに入ると、朝から何やら怪訝なムードが漂う車内に感じたもので、1日の始まりと終わりでのヒトの心理の違いを実感したのでした。
海水浴ダイヤは天候により運行レベルがあり、最大運行時には横浜〜逗子間が20分間隔で更に追加されました。横浜〜八景では優等2本続行と3本続行が交互に為される訳です。こうなると車輌総動員でしたから230形も加わり、この系統に充当されました。最早、急行運用も無くなった230形にとって、昭和47年の横浜逗子間海水浴特急が最後の優等運用となりました。
まだ朝比奈さんが細胞分裂にも至らぬ夏は暑くて当たり前の時代の営みのご紹介でした。
投稿: あづまもぐら | 2018年6月 1日 (金曜日) 16時02分
どこでも海水浴は大変でしたね。昭和50年代、茨城の阿字ヶ浦海岸は勝田から車で行くと歩くより時間がかかりましたが、湊線だと40分、よって4両でも満員、当時の湊線には冷房などなく、入ったばかりのキハ11(先代)は扇風機があるため狙い目でした。
阿字ヶ浦駅舎は小さすぎて、帰りは駅前が行列で埋まりました。
投稿: 水戸市民 | 2018年6月 2日 (土曜日) 18時05分
あずまもぐらさん いつも書き込みありがとうございます。
詳しい夏ダイヤのお話しありがとうございますヽ(´▽`)/
わたしの知らなかったコトなど書いて頂いて大感謝です。
夏ダイヤの事に今は知る人も少なくなっていて・・・しかも
詳しい本も資料もありません(あっても少しか書いてない)
こうして夏ダイヤの記事を書きましたが、足りない部分を
書き込んで頂いて私のブログの内容に深みを与えて頂け
るので感謝ですよぉー(≧∇≦) ありがとうぉ(*゚▽゚)ノ
それにしても、あれほど海に出かけた人達は今の夏をど
のように過ごしているのでしょうかねぇ???
投稿: 朝比奈ひなた | 2018年6月 2日 (土曜日) 20時03分
水戸市民さん いつもありがとうです(≧∇≦)
昭和の茨城交通湊線も海水浴シーズンは凄かったんですねぇ!!さすが天下の「大洗海水浴」など風光明媚な海が
あるから当然ですよねぇ。それにしても4両編成で走る湊線
の姿一度でいいから見てみたかった!!!
混雑する夏の阿字ヶ浦なんてすごく絵になる風景だったんだ
と思い描くだけでワクワクします。はぁ~やっぱり夏は良いな。
投稿: 朝比奈ひなた | 2018年6月 2日 (土曜日) 20時09分
幼い頃を思い出す懐かしい記事、楽しく読ませていただきました。
ただ自分が知っているのは、昭和50年代になってからで、最盛期は過ぎた頃。しかし、ギチギチの三浦海岸、京急でした。
京成沿線が地元でしたので、海水浴は千葉方面が多かったですが、青砥に時たま現れる赤い電車に乗りたいと、押上始発の特急で連れて行ってもらいました。冷房もなく暑くて暑くて。帰りの三浦海岸に冷房電車来て、恐らくは600だったのでしょうが、涼しい電車に乗りたい!と言ったものの、品川行だからダメ!と。暑いのは嫌とゴネましたが、赤い電車だから暑いの!の訳の分からない親の理屈に屈した思い出があります。
千葉方面には両国から乗ったり、指定が取れず、さざなみ号の自由席、床に新聞紙を敷いて座って言ったり。そうした光景は見なくなりましたね。
投稿: はなしん | 2019年7月11日 (木曜日) 12時55分
はなしんさん。 書き込みありがとうございます(*゚▽゚)ノ
こんな誰も寄らない辺鄙な鐡道ブログを読んで頂き本当に
恥ずかしい限りでございます。夏ダイヤの頃の京浜急行の
記事如何でしたでしょうか?
私も三浦海岸がイモ洗いな頃は知りません。と言うか生ま
れていません。ですが、はなしんさんの少し後くらいの頃に
三浦海岸へ親に連れられて行きました(*´▽`*)(*´ω`*)
まだ海水浴で賑やかな京浜急行で楽しかった頃ですねぇ!
どこを見ても親子で海岸はビッシリ。まだまだ日本が元気な
頃だったんだなぁーと、いま思えば考えてしまいます。
はなしんさん(* ̄ー ̄*)
辺鄙で他では取り上げない記事ばかりですがお気に入りの
記事ありましたら気軽に書き込みしてくださいねぇ(*゚▽゚)ノ
投稿: 朝比奈ひなた | 2019年7月15日 (月曜日) 20時51分
初めまして。
私は高校1年の時に三浦海岸のビーチセンターでアルバイトをしていました。
ビーチセンターがいつ頃無くなってしまったのか気になり、調べていて貴方様の京急の記事に出逢いました。
投稿: 山口清美 | 2023年2月27日 (月曜日) 08時48分
山口清美さん。書き込みありがとうございます。三浦ビーチセンター懐かしい響きです。京浜急行の駅員さんたちが夏の助勤でイカ焼きなど焼いていた姿がすごく懐かしいです(´;ω;`)ウッ…。そんな三浦ビーチセンターの最後は平成8年の京浜急行時刻表に掲載があるのでその時期まで営業していたと思います。いい加減ですいません。書庫が荒れているので調べるのがぁ・・・・。またビーチセンターの建物は平成8年以降も引き続きあり。鉄道の日のイベントなどで利用されていました。
投稿: 朝比奈ひなた | 2023年2月27日 (月曜日) 20時21分