序として
朝比奈さんが大学を卒業したての頃のお話しです。
頼まれゴトで日本から欧州(英国ロンドン)への鐡道
連絡を調べた事がありました。
いまから10数年前の事です。朝比奈さんが血気盛
んだった頃でございます。 交通公社旅の図書館や
交通博物館図書室に籠って古い資料を読みながら
資料を纏めていましたが当時の朝比奈さん知識が
低すぎて全くお話にはならなかった。
なぜなら、日本と亜細亜の鐡道事情または欧州の
鐡道事情など、基礎的なコト理解が出来なければ
全体を把握するこことが出来ないのです。
とうとう1年資料を集めて諦めてしまった。それから
いつかは手をつけようと心に決心したのだけど・・・。
今ままで手も付けないで、ほったらかしですよぉ。
そこで第144回鐡道記念日をお祝いして凄く簡単に
まとめる事にしました。それでも長い文章になります
鐡道趣味を読んでい頂いている皆様に当時の鐡道
と旅の様子を少しでも味わってもらえれば幸いです。
それにしても長い文章になってしましたぁ
お話しは、いまから約100年前から始まります。
大正2年(1913)6月10日から主要駅でシベリア
鉄道を経由して欧州方面へ「1枚の切符」で!
なんと
行けるようになりましたΣ( ̄ロ ̄lll)
鐡道を乗り継いで欧州各国へ行く連絡のことを
「Europe-Asia Trans Trans-Siberian Through Traffic」
日本語では「シベリア経由欧亜連絡運輸」と言い
ます。 なんだかロマンある言葉だよぉ(≧∇≦)
実は明治時代から国際的な鐡道を乗り継いでぇ
海外には行けたのですが、この時にそれが拡大
して主要駅で切符などを用意すれば欧州の主要
各地また中心であるロンドン
まで1枚の切符で
行けるようになったのでしたΣ(・ω・ノ)ノ!
ただ
鐡道を乗り継いで欧州に行くために!!
とっても重要な問題がありました。それは鐵道が
走る地域が平和なことが大前提なのです。紛争
戦争があるようでは鐵道を乗り継ぐ旅は無理
その危惧が当たります。1年後の大正3年(1914)
7月に第一次世界大戦がはじまるのです
とてもぉ旅行どころではないのですよぉ。大正7年
(1918)11月には戦争は終結するのですが、シベ
リヤ鉄道が走るロシアでは戦中からの革命が激し
い内戦になってしまったのですよ。
そんな訳でぇ
やはり紛争地域を通らなくても良い海路のコース
が遠回りだけど日本と欧州を結ぶメインコースと
して不動なモノになります。やっぱりですよぉ・・・。
こうしてシベリア鐡道を乗り継いで欧州へ向かう
旅行コースは終りに見えたのですがぁ・・・
お話はまだまだ続くのです∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
【アールデコ調のPRポスター 鐡道省 里見宗次】
時は過ぎて第1次大戦が終わってから7年後の
大正14年(1925)に日本とソビエト連邦との国交
が回復します。そこで、戦前のシベリア経由連絡
運輸を復活させようと日本と各国の鐡道の人がぁ
話い合いました。
ここで凄く大人の問題が出てしまします。文字数
が物凄く増えるので触れないのですがフランスと
ベルギーが連絡運輸会議から離脱するのです
それでも昭和2年(1927)7月1日から欧州の一部
地域を除く連絡切符が駅で発売されたよ(≧∇≦)
そして、翌月の7月1日から旅行ができるように!
なんだか壮大な旅行ですよねぇ(≧∇≦)
朝比奈も乗ってみたい。そこで乗ってみますよ
お出かけは昭和9年頃にしようかなぁ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
それでは当時の時刻表を参考に昭和9年頃のぉ!
欧亜連絡の旅スタート
はじまり はじまり
【シベリア経由欧亜連絡線 亜細亜地区A図】
朝比奈さんは東京駅からロンドンへ旅行してみるよ
ちなみに亜細亜地域の旅行工程は東京駅からは
超特急燕号で神戸・そこから船で大連港へ、その先
は南満州鉄道&東清鐵道を乗り継いでいきますそもそもシベリア経由連絡運輸切符はA図で示した
各線すべてが連絡運輸線になります。A図で指定さ
れた好きなコースを自分で選んで良いのでアレンジ
自由な旅行ができる周遊きっぷみたいダァ(゚▽゚*)
それにどこを経由してもOKなのよ( ̄ー ̄)ニヤリ
別に鐡道省線(関釜連絡船)以外は使えないという
ことでは無いのです。ここ間違いやすい部分です!
テストに出ますよぉε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
鐵道省様のお勧めコースわぁ
東京→下関→関釜連絡船→朝鮮→満鉄コースと
東京→神戸→大阪商船→満鉄コースかなぁ
最短コースでわぁ
東京→米原→敦賀→北日本海汽船→ウラジオ!
さてコースも決まった(≧∇≦)
次は1番の問題点それは運賃だ!費用どのくらい?
まずはロンドンまでの連絡切符は東京駅で買えます。
運賃は1等・2等・3等の3種類に分かれていますよぉ
切符は片道券のみで旅行開始から60日間有効です。
なので途中下車を愉しみながら旅行できますよ(゚▽゚*)
さて、問題のお値段です(*゚▽゚)ノ
東京駅~ロンドンまでは( ̄ー+ ̄)
一等車 181ドル70セント
二等車 135ドル85セント
三等車 90ドル62セント
※経由地によって金額が変わるので注意だよぉ(゚▽゚*)
【金額は大連・哈爾濱・ワルシャワ経由ロンドンの運賃になります】しかも、これは鐵道運賃だけのお話でしてぇ
やっぱり長旅なので寝台車を使いたいと思うと別料金
が必要になります。その寝台車の予約わぁ(* ̄0 ̄)ノ
ジャパン・ツーリスト・ビューローで出来ます(*^ー゚)b
ちなみにシベリア鉄道の寝台料金わぁ。
昭和2年(モスクワ~満洲里間)
一等 45ドル63セント
二等 10ドル38セント
三等 6ドル92セント
そうそう運賃の値段は第三国のアメリカドルで記載され
ます。当時からドルは基軸通貨だから当然だよねぇ!
ちなみに昭和10年(1935)頃
1ドル≒3円50銭 当時も変動相場なので凄く大まか
一等車運賃の181ドル70セント≒635円95銭
※鐡道省が定める連絡運輸交換レートは100円≒344円82銭当時の大卒初任給が90円の時代ですよぉΣ(・ω・ノ)ノ!
いまの大学生と身分が違う超エリートさんで月90円
旅行全体で考えると片道だけと考えて(゚▽゚*)
鐵道代金以外に(寝台車代金+食費+ホテル代)など
含めると最低でも当時の金額で500円は必要かもぉ
【↑ 昭和9年 当時の汽車時刻表12月号の一部 】
さてさて、飲まず食わずで借金もしてロンドンまでの
旅行代金をかき集めた朝比奈さんですが、ここで最
大の難関が立ちはだかります。それわΣ( ̄ロ ̄lll)
ソ連を通過するためのビザ=査証が必要なのです。
当時のソ連は恐怖のスターリンおじさんがブイブイ
言わせた時代なのでソ連国内を通過するにしても
検査が厳しいのです。欧亜連絡運輸が盛り上がら
なかった理由の1つはココにあると思うのよぉ
お金があってもソ連への査証が通らなかった人が
とても多かったそうです。恐るべしソ連だぁ∑(゚∇゚|||)
さて、ここからは朝比奈さんが実際に時刻表片手に
当時の欧亜連絡で旅をしてみます。切符もパスポー
トも査証も用意できたら旅行開始です
まずは東京駅9:00発のぉ 特別急行列車「燕」号に
乗りますよぉ。その速さから当時は超特急と呼ばれた
列車しかも燕号は1等車+2等車+食堂車からなる。
豪華列車ですよぉ。すごいねぇ( ̄ー+ ̄)
それでは英国ロンドンへ向かう1本目の列車に選んだ
超特急燕号の紹介しますねぇ( ̄ー+ ̄)
超特急燕号が初めて運行したのは昭和4年(1929)は
東海道本線は御殿場線を回るルートでした。それでも
東京-神戸をどうにか9時間で結ぶ為に物凄い工夫を
していました。
その工夫は列車を引っ張る機関車は当時鐡道省最強
C51機関車。この蒸気機関車の性能最大限使用する
石炭をたくさん積みこめるようにして途中駅で補給しな
くても良い改造をしました。しかも水は機関車の後ろに
水タンク車を繋いで補給することに∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
お蔭で国府津駅~名古屋駅間の約300kmを無停車
で走り切れるようになったのよぉΣ( ̄ロ ̄lll)
それに凄いのは300km無停車だと機関士さんと助手
さんが疲れるので交代するんだけど、交代は走りなが
らなんです。だぁ・・・大丈夫なのぉ???
客車から水タンク車の細い歩み板をすり抜け石炭積ん
だ車の隙間を縫って運転台までたどり着く。流石です。
コンプライアンスなんてぇ糞食らえの時代です
そんな工夫をして東京-神戸を9時間で結んだのです。
この努力も丹那トンネルの開通で時間に余裕ができて
静岡に停車するようになってからは中止になったけど。
ある意味伝説ですよねぇ( ̄ー+ ̄)
こんな無茶苦茶な伝説を誇る燕号さんです。凄いよ。
【↑ 特別急行列車 燕号食堂車】
さて、超特急燕号は順調に東海道は下っていきます。
東京駅を9:00に出発して横浜9:27・沼津11:00・静岡
11:48・名古屋14:22・大垣14:58・京都16:26・大阪駅
には17:02・三ノ宮17:33、そして終点神戸駅に17:37
昼間の時間を走るのでお昼は食堂車にしましょう
この燕号の食堂車はなんと冷房が完備されています。
とぉ・・・いっても冷房車が登場したのは昭和11年から
なんですけど、その冷房車が上の写真ですよぉ。
凄く豪華でしょ。通路を挟んで4人掛けテーブルと2人
掛けテーブルが並ぶ高級レストラン仕様ですよぉ
食堂車は一度にお客さんが来られても大変なのでぇ!
4回に別れてゆったり食事が出来るようになっています
さすがです。この燕号の食堂車は洋食専門でした(゚▽゚*)
さてさて、昭和9年12月1日の新丹那トンネル開通で
特別急行燕号は東京駅~沼津駅までは電気機関車
で牽引されることになりました。そして沼津駅からは
鐡道省が誇る最高技術を使った特急用C53蒸気機
関車が牽引します( ̄ー ̄)ニヤリ
この蒸気機関車は見た目以上に凄いのですよぉ
超特急燕号は速さが命。なので蒸気機関車には速く
走れて力が強い方が良い。 速く走る為には動輪を大
きくする。蒸気の力をピストン運動にするにしても実は
物理法則では1分間で約350回転が限界なのです。
だったらピストン運動の先の動輪を凄く大きくすればぁ
スピードが出るのだけどぉ・・・日本の線路は線路幅が
狭いので動輪を大きくすると不安定で機関車倒れる
そこで日本では限界であろう動輪の大きさ1m75cm
を用意しました。そして力を強くするために動輪を動
かすシリンダーを3つにしたのですよぉ(* ̄0 ̄)ノ
でも・・・見た目は普通だけどぉ・・・実は左右意外に!
車体の真ん中にシリンダーがあるのですよ∑ヾ( ̄0 ̄
【↑凄く珍しい C53蒸気機関車の音が聞けるよぉ】
だから蒸気機関車の音としては不思議な感じしますよ。
この構造は鐡道省では初めてでした。この複雑な中央
シリンダーの設計は、後のD51とか新幹線を担当する!
あの島秀雄さんの作品でした。
なので優秀と思いきやです。精密機械過ぎて不評でした。
係の人曰く「整備しずらい」「故障しやすい」などなど・・・。
しかも運転士さんからも出発する時に急に動かなくなる
などなど大不評でしたil||li _| ̄|○ il||li
お蔭で3つシリンダーがある蒸気機関車はC53以降わぁ
止めてしまった。それでも綺麗に整備され機関車は優秀
で戦前の特急蒸気機関車の代表的機関車でした。
【↑流線型の凄いヤツ C53 43号機さんだぁ!】
ちなみにC53機関車の43号機は流線型の外観をした。
凄いヤツがおりました。1回見たら夜寝れないほどの!
外観だよぉ朝比奈わぁ・・・あんまぁ・・・好きくないです
さてとぉ~長々と超特急燕号の話しをしてしまった////
気がつけば定刻通り17:37分に終着神戸駅到着です。
【↑昭和初期の神戸 オリエンタルホテル外観】
さて、ここで大連港行の大阪商船さんの船に乗り換え
なんだけどぉ・・。出航は明日の12:00なので今日は
神戸市内で1泊になります。市内で宿泊するならねぇ
押さえたいのは「オリエンタルホテル」さん( ̄ー ̄)
伝統あるホテルで1泊しますよぉ。明日からは海路で
長旅がまっています。さぁ翌日は神戸港から大連港!
さて、翌日神戸港を12:00に出帆して翌日の12:00
下関港に寄港します。そして船に揺られて4日目9:00
に大連港に到着予定です。
なので船の中で3泊4日過ごします(・_・)エッ....?
さすがロンドンまで長いよ。でもこれは軽い準備体操。
【↑大阪商船 日満連絡船 うらる丸 ねつか丸】
そんなお疲れ顔の朝比奈さんを大陸の大連港まで!
連れて行ってくれるのが大阪商船が誇る日満連絡船
達です。
「うらる丸」「ねつか丸」ともに豪華貨客船ですよぉ。
大陸の玄関「大連港」まで東京駅から4泊5日です
それでも、まだ玄関なんだぁ・・・
朝比奈さんは船旅が好きなので神戸港から大連港に
向かいますがぁ
鐵道省がお勧めするメインコースと
言われいるのが特急富士を利用して下関と朝鮮を経
由するルートなんです。
せっかくなので少しご紹介しますねぇ(*^ー゚)bグッジョブ!!
東京駅から特別急行列車「富士」号で出かけるコース東京駅を15:00に出発します。戦前の富士号は
超豪華仕様の国際的な特別急行列車さんでした。
特別急行列車富士号は初めてが多い列車さん
日本で初めて「特急=特別急行」と名乗ったのも
富士号もちろん愛称は当時は無く「第一列車」と
呼ばれていました
そうそう昭和4年(1929)には公募で愛称が募集
され「富士」と言う名前がつきました。これも初め
てだねぇ。面白いところでは初めてシャワーバス
付きの特急列車でもありました。
【↑凄く珍しい 戦前の特別急行列車1等車内の寝台】
そんな富士号の珍しい1等寝台の写真が上です
4人用の区分個室でございます。左右に2段寝台が
あって中央に窓がある感じです。さて、実は戦前の
1等車内を撮影した写真は物凄く少ないのですよぉ。
お金を持っていても1等車に乗ることができない可能
性があった時代です。そこで写真を撮るなんて・・・
もぉ~無理想像も付かない……(ノ゚ο゚)ノミ(ノ _ _)ノ
さて、東京を15:00に出発した富士号は大阪駅に
は23:27到着します。 そして翌日の9:30に終着
下関駅には到着します。
そうそう下関駅は現・下関駅の位置ではありません
【↑昭和初年の旧下関駅舎の風景だよぉ(゚▽゚*)】
今の下関駅は関門トンネルが開通した時に造られた
駅なのですよぉ。昭和9年当時の駅は「関釜連絡船」
の桟橋に対して平行に駅がありました。
すぐに関釜連絡船に乗り変えれるように造られた便
利な駅なのです。 そんな下関駅に9:30に到着する
と接続する関釜連絡船は10:30出帆の船になるよ。
なので1時間乗り換えです。
ここで急いで乗り変えるもOKだけど
【↑ 昭和初期の山陽ホテル外観です(*゚▽゚)ノ】
下関駅横にある山陽ホテルに宿泊するのも面白い
この山陽ホテルは鉄道会社が併設したホテルとして
は日本で初めてなんです。あの超有名な東京ステー
ションホテルよりも先輩だぁΣ( ̄ロ ̄lll)
そんな有名ホテルで1泊して列車の旅の疲れを癒し
から翌日に朝鮮へ出かける。良いかもぉ( ̄ー ̄)ニヤリ
【↑鐡道省 関釜連絡船 最新鋭船 興安丸】
でも、お急ぎの方を考えて説明を先に進めるよぉ
下関港出帆10:30で一路「釜山港」まで進みます
昭和9年当時の船は速力は20ノットの快速船だけど!
設備が少し古めな感じなんですよぉ・・・。
でもでも
昭和11年からは鐡道省ご自慢最新鋭船
「金剛丸」「興安丸」が就航します。上の写真だよぉ
航海速力20ノットを誇る快速船に豪華な設備が自慢
なのですけど(゚▽゚*)まだ、ないから古い船で我慢だぁ。
そんな話をしながら玄界灘を越えていきます。そして!
朝鮮の釜山港に同じ日の18:00に到着しますよぉ
約7時間半の航海
うん
時間かかりますねぇ_| ̄|○
【↑朝鮮総督府鐡道 釜山駅】
さぁ
ユーラシア大陸への第一歩目ですよぉ(*゚▽゚)ノ
釜山港から直ぐ近くにある釜山桟橋駅へ向かいます
ここで朝鮮鐵道の主力列車「急行ひかり号」奉天行き
に乗ります。なんと朝鮮鐵道には急行「のぞみ号」も
あります。なんだかすごいΣ(・ω・ノ)ノ
【↑昭和初期の朝鮮鐵道 急行ひかり号】
そんな訳で釜山桟橋駅発19:20「奉天」行の急行
ひかり号は走り出しますよぉ。深夜に京城(ソウル)
3:05に到着し、そのまま朝鮮満洲国境を越えます。
そして東京駅から3泊4日で奉天到着します。
この下関・関釜連絡・朝鮮経由ルートは結構早い
【上・大連港 下・南満州鉄道大連駅 共に昭和初期】
ここまでは下関・関釜連絡・朝鮮経由のご紹介でした。
朝比奈さんは神戸・下関を経由して大阪商船で大陸
の玄関口「大連港」に到着です。大連港から連絡バス
で大連駅に向かいます。大連駅は上野駅を超巨大に
したような凄い駅ですねえ。
さすがは南満州鉄道の拠点駅だけありますヽ(´▽`)/
さぁ大連発12:00の急行はと号新京行の列車に乗り
ます
ここからは大陸の広い原野を爆走していきます。
【↑ 昭和初期の南満州鉄道 新京駅舎】
大連駅発12:00の急行はと号は大爆走して満洲の
新しい中心都市になる新京駅に同じ日の22:30に
到着します
でも夜遅くに到着するので先に進む列車が無いので
すよぉ。なので新京市内で1泊になりますΣ(゚□゚(゚□゚*)
いくら連絡運輸で1枚の切符で乗り継ぎでも不便だぁ。
次の日 起きて(*゚▽゚)ノ
新京駅発10:40発の列車で満洲北部の町である!
哈爾濱(ハルピン)駅まで進みます。ああっ凄く長い
旅行になってきたよぉ。
【↑ 昭和初期の南満州鉄道哈爾濱(ハルピン)駅】
新京駅発12:00の列車は7時間かけて定刻通り
同じ日の19:15に哈爾濱駅に到着します。ここま
で来ると街並みがロシア的になりますねぇ。
なんか欧州に1歩近づいた気がするよぉ
でも・・・でもです。なんと先に進む列車が無いの
また哈爾濱駅の近くのホテルで1泊ですよぉ・・・。
なんだろう
連絡運輸って言いながら乗り換えが
凄く不便だよぉ_| ̄|○
またまた、次の日起きて(=゜ω゜)ノぃょぅ
哈爾濱駅発8:30の列車でで国境の町「満洲里」
駅に向かいます。しかも着くのは翌日の7:10着
なので・・・また丸1日もぉ
列車で監禁ですよぉ
非常にキビシーヾ(*゚A`)ノ
【↑ 昭和初期の満洲里駅構内】
そして来ました満洲国境の町「満洲里」駅に7:10に
列車は到着しました。もはや満洲というよりもロシア!
そんな感じの街ですねぇ
次の列車からは超期待のシベリア鉄道の入口になり
ますよ。でも、乗り換えが悪くて満洲里駅で約6時間
待ちになりますマダァ-? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
そして満洲里駅13:10発モスクワ行きに乗ります
【シベリア経由欧亜連絡線 露西亜・欧州B図】
ここから地獄のシベリア鉄道です。物凄く遅いです
満洲里駅を出発してから6泊7日の監禁旅行ですよ。
列車で6泊7日ってどうよぉ_ノフ○ グッタリ
もはや放心状態になりながらモスクワに着くのが7日
後の17:00に到着します。もぉ・・・いち早く列車から
降りたいよぉ。もぉ体力的に無理かも・・・_| ̄|○
【↑ 昭和9年 当時の汽車時刻表12月号の一部 】
時間を持ち余すシベリア鉄道の旅。そこでモスクワ
から先の旅行の工程を先に紹介だぁ。 列車の乗り
換えは重要ですからねぇ( ̄ー ̄)ニヤリ
ここから朝比奈さんの欧州の旅行工程を(*゚▽゚)ノモスクワから国境の「ストラブツェ駅」まで進みます
そこから北急行でベルリン。ベルリンで乗り換えて
ベルギーのリエージとオステンドを経由して!
英仏海峡を渡りロンドンへ向かいますよぉ(≧∇≦)シベリア鉄道のコトを長々書いても疲れるのでぇ!
ここは大胆に超省略しますΣ(゚□゚(゚□゚*)
さて、シベリア鉄道6泊7日の修行を終えてモスクワ
に17:00に着きました足元ふらふらになりながら
同じ日の22:00発ストラブツィ行きの乗り変えます。
実はモスクワにはたくさんの駅がります。行き先に
よって出発駅が異なるのですよぉ。ストラブツィ行き
の駅はベラルスコ・バルチースキー駅からの出発
【当時のベラルスコ・バルチースキー駅】
ベラルスコ・バルチースキー駅発22:00ストラブツィ
行きの列車に乗ります。はぁ~また乗り変えだぁ!!
さて、行き先の「ストラブツィ駅」と言うのは凄く
小さな駅なんですよぉ。なぜ、ここで乗り換える
かと言えば、実は当時のソ連とポーランド国境
にあった重要な乗換駅なのです。
この駅から先は期待の中央ヨーロッパ諸国です。
ああっ欧州だ
それにストラブツィ駅から線路の
幅が変わります。ソビエト領内は広軌1520mm
だったのが、この駅から先の主な路線全て世界
標準の1345mmなんですよぉ φ(・ω・ )メモメモ
【現在の地図で示す 国境の駅ストラブツェ】
さてさて、モスクワから列車にゆられて定刻通り!
翌日にストラブツェ駅に到着しましたよぉ~(゚▽゚*)
ここで、ちょっと21世紀の現代の戻りますヾ(*゚A`)ノ
実は現在のストラブツェ駅はベラルーシ共和国の
中央部分にあるのです。なんと第2次世界大戦後
ポーランド領土が国ごと西へ(ドイツ方面)かなり
移動しました∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
なので現代の地図を見ながら1930年代の時刻表を
見ると国と地域が異なる場合が凄く多いのですよぉ。
特に東ヨーロッパは凄く違うんです
【↑1930年代の北急行 左の写真には名称と行き先が見えるね】
そんな激動のストラブツェ駅を14:05発ワルシャワ
経由ベルリン・パリ行きの北急行に乗り変えますよ。
乗り換えしなければ終点は花の都パリだけどぉ
朝比奈さんの行き先はロンドンなのでベルリン乗り
換えだ┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~
でも、ここまでくれば先は短いねぇ(◎´∀`)ノ
【↑ 昭和初期 ベルリン=フリードリヒ通り駅】
ストラブツェ駅発14:05の列車は、定刻通り同じ日
21:45にはワルシャワ駅に到着します。列車はさら
に進み翌日の9:23にベルリンに到着します。
ちなみ注意ですベルリン駅と言いう駅は無いのです。
当時のベルリン市内は動物園駅・ベルリン=フリード
リヒ通り駅・シュレージエン駅(現・東駅)があるのです
が北急行は全て経由するので安心だぁ。
ここで少し寄り道の話しでございます(゚▽゚*)
朝比奈が旅をする昭和9年(1934) その2年後には
ベルリンオリンピックがありました。実はこの時の観戦
客また選手団・役員様など多くの方々がシベリア経由
で来ています。
鐵道統計資料によると
昭和9年の日本から欧亜連絡利用した人は
256人なんです。それが昭和11年度は641人になる
この人数の大部分がシベリア経由してベルリンに来た
ことになります。でも凄くキツイと思うよぉΣ(゚□゚(゚□゚*)
お話を戻してぇ(゚▽゚*)
さて、ロンドンに行くためにベルリンで乗り換え待ちです
ロンドン行きの列車はベルリン発21:13なので1日は
ベルリン市内を堪能できますよぉ。
やっぱり都市でゆっくり1日あると心なごみますよぉ。
あの哈爾濱駅での1泊とは大違いですΣ( ̄ロ ̄lll)
【アールデコ調が美しい 北急行のポスター】
ここで北急行で乗り換えなしでパリへのお話ストラブツェ駅からそのまま列車に乗っていれば2日後
には花の都「パリ」のパリ北駅に朝6:43到着します
~ちょっと北急行のお話〜
ストラブツェ-ワルシャワ-ベルリン-パリの区間は国際
列車「北急行Nord Express」に乗車するのですが実は
あの超豪華オリエント急行も運営している有名会社の
国際寝台車会社(ワゴン・リー)が運行する列車です。
※ちなみにオリエント急行ほど豪華列車じゃない
【↑昭和初期の北急行の客車】
それでも朝比奈は北急行こそが本当のオリエントエキ
スプレスではと思うのです。だって乗り継いで行きつく
先は東洋の日本なんですからねぇ( ̄ー ̄)ニヤリ
【↑20世紀初頭のパリ北駅】
そんな訳で東京駅から16泊17日で花の都「パリ北駅」
ここまで旅行するのも大変だぁ。さてさて、ここは脇道
の話しはここまでにして朝比奈が向かうロンドンへの
お話に戻しませう。
その前にもう少し脇道の話しをしましょうねぇ(* ̄0 ̄)ノ
【↑日本郵船が誇る 欧州航路最優秀船 照国丸 】
さてシベリア経由で鐡道乗り継いでロンドンの手前ま
で来ました。はぁ~凄い乗り換えが多いよぉ。(゚▽゚*)
ここで乗り換えなしでこれる日本郵船さんの場合を!
紹介しておきますね。船は横浜港からスエズ経由で
英国までは約21日間航海になります。日数だけ見る
と鐵道より時間が凄くかかりますね。
【↑ 昭和9年 当時の汽車時刻表12月号の一部 】
そうそう運賃も大切(* ̄0 ̄)ノ
1等船室Aで104ポンド・2等船室Aで69ポンドでかなぁ。
当時のレート(1930年前後)は1ポンド=約5.5円位だよ
ポンドは計算難しい1ポンド=20シリング=240ペンス
ああっ
そうすると\(;゚∇゚)/
当時の金額で1等船室Aは572円 2等船室Aは380円
シベリア経由の鉄道運賃の1等と1等船室Aを比べれ
ば船で遠回りした方が安のですよΣ( ̄ロ ̄lll)
しかも、乗り換えしないのが超嬉しいですよぉ
運賃も差はあるけど大学卒の初任給が90円~100円
の時代だから安く行ける船の方が人気になるはずだ。
【英国4大鐡道の サザン鐡道のポスター】
さて、からり話がそれたけど東京駅を出発して17泊と
18日で目的地の大英帝国の首都ロンドンに16:55に
到着しました。はぁ~乗り換え多すぎで疲れた
長々書いたけど世界半周した約80年前の旅行でした
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…
文末に
物凄く早足で、しかも大切な部分も凄く簡略しました。
なので不可思議な部分もあるのです。スイマセンです。
だってねぇ長すぎますよぉ
書いていてクラクラしてる。
それに10年以上も資料をほったらかしせいで資料の
2/3を
なんと紛失してしまったのです。 文章を書き
始めて気が着いたという状態だぁΣ( ̄ロ ̄lll)
しかも戦前の急行列車の資料は恐ろしいほど無い!
こんな状態なのです。だからねぇ・・・これで許して
「あははははははは・・・はっはあ」笑ってごまかそう。
次回・・・やる気あったら雪辱戦したいです。はぃ
やっぱり仕事しながら2週間では書けないよぉ
今回も宮松コレクションの提供を受けております。
提供いただいた宮松慶夫さま。大切な御写真を
ありがとうございました。
第144回鉄道記念日をお祝いして
文 朝比奈ひなた
最近のコメント